アレクサンドル・ミルラン
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アレクサンドル・ミルラン
Alexandre Millerand


フランス共和国
第12代大統領
任期1920年9月23日 – 1924年7月11日

出生1859年2月10日
フランス帝国 パリ10区
死去 (1943-04-07) 1943年4月7日(84歳没)
フランス国 ヴェルサイユ、セーヌ・エ・オワーズ
政党急進社会党
→共和主義社会党
→共和主義連盟

アレクサンドル・ミルラン(Alexandre Millerand、1859年2月10日 - 1943年4月7日)はフランスの政治家。第一次世界大戦後の1920年1月から首相となり同年9月第12代大統領(フランス第三共和政)(在職1920年-1924年)。

パリ10区に布商人の息子として生まれる。パリの法学部ライセンスを取得し、パリで弁護士登録した。1885年に代議士(以後1919年まで在任)に当選し政界入りを果たし、最初急進社会党と行動を共にすることが多かったが、後に共和主義社会党に鞍替えする。1899年から1902年までピエール・ワルデック=ルソー内閣の商相となったが、この時の入閣では社会党内の内紛を招き結果として彼は社会党を去り共和主義連盟に再度鞍替えしている。その後、1901年から1911年まで公共事業・通信相、1912年から1913年および1914年から1915年まで陸相を務めた。

第一次世界大戦後の1920年1月フランスの首相となり、鉄道炭鉱総罷業を弾圧、同年9月フランスの大統領に就任しルール問題等にあたってきたが、1924年春の選挙に勝った左翼連合から右傾政策を痛撃され、満期前の同年6月に辞職。のち1925年から1940年まで上院議員となった。

本名をカーンというユダヤ人で、フリーメーソンの結社員であったという。第二インターナショナル結成(1889年7月14日)の2日後にパリで世界のフリーメーソン大会を主催した有力人物のひとり[1]
注釈^ 『猶太思想及運動』 四王天延孝 内外書房 1941年7月15日 163p










フランス共和国大統領
第二共和政ルイ=ナポレオン・ボナパルト1848-1852
第三共和政

アドルフ・ティエール1871-1873 / パトリス・ド・マクマオン1873-1879 / ジュール・グレヴィ1879-1887 / サディ・カルノー1887-1894 / ジャン・カジミール=ペリエ1894-1895 / フェリックス・フォール1895-1899 / エミール・ルーベ1899-1906 / アルマン・ファリエール1906-1913 / レモン・ポワンカレ1913-1920 / ポール・デシャネル1920 / アレクサンドル・ミルラン1920-1924 / ガストン・ドゥメルグ1924-1931 / ポール・ドゥメール1931-1932 / アルベール・ルブラン1932-1940
第四共和政

ヴァンサン・オリオール1947-1954 / ルネ・コティ1954-1959
第五共和政

シャルル・ド・ゴール1959-1969 / ジョルジュ・ポンピドゥー1969-1974 / ヴァレリー・ジスカール・デスタン1974-1981 / フランソワ・ミッテラン1981-1995 / ジャック・シラク1995-2007 / ニコラ・サルコジ2007-2012 / フランソワ・オランド2012-2017 / エマニュエル・マクロン2017-


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