アレクサンドル2世
Александр II
ウラジーミル大公
プスコフにおけるアレクサンドル公
在位1326年 - 1327年
別号トヴェリ大公
在位1326年 - 1327年、1337年 - 1339年
出生 (1301-10-07) 1301年10月7日
死去 (1339-10-29) 1339年10月29日(38歳没)
配偶者アナスタシア
子女フョードル
レフ
フセヴォロド
アレクサンドル・ミハイロヴィチ(Александр Михаилович 1301年10月7日 - 1339年10月29日)は、ウラジーミル大公(在位:1326年 - 1327年)、トヴェリ大公(在位:1326年 - 1327年、1337年 - 1339年)、プスコフ公(在位:1327年 - 1337年)、アレクサンドル2世とも呼ばれる。父はミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。 兄ドミトリー・ミハイロヴィチの死後、トヴェリ大公位を継ぐ。またウラジーミル大公にも任じられる。息子にはフョードル、レフ、フセヴォロド
事跡
1326年に兄と共にサライに行く。アレクサンドルが先に帰国した後、兄がモスクワのユーリー3世をウズベク・ハンの前で殺害。
1327年にトヴェリにバスカクのチョル・ハンが到着。その傍若無人な徴収活動に対し、トヴェリ市民が蜂起し、チョルは殺害される。この機会を利用し、モスクワのイヴァン1世がウズベク・ハンの軍を引き連れ、暴動鎮圧に成功する。アレクサンドル公は、ノヴゴロド、そしてプスコフに逃亡した。
1329年にリトアニアに逃亡する。
1335年までプスコフ公位に就く。イヴァン1世の軍事的示威行為と、府主教フェオグノストによるプスコフ市及びアレクサンドル公の破門を受け、アレクサンドル公はジョチ・ウルスへの出頭を決意し、ウズベク・ハンのもとに参上する。ウズベクはアレクサンドルを赦し、彼をトヴェリに帰国させた。
1339年にイヴァン1世がアレクサンドルのことをウズベク・ハンに訴える。
同年、再度ジョチ・ウルスに出頭し、そこで息子フョードルと共に処刑される。トヴェリ公位は弟のコンスタンチンが継承した。母アンナはこの後、カシンで修道女となり、生涯、殺害された夫や息子たちの魂の安和を祈る生活を送ったと伝えられる。
先代
ユーリー3世ウラジーミル大公
15代
1325年 - 1327年次代
イヴァン1世
先代
ドミトリー・ミハイロヴィチトヴェリ大公
1325年 - 1327年次代
コンスタンチン
先代
コンスタンチントヴェリ大公
1337年 - 1339年次代
コンスタンチン
表
話
編
歴
ロシアの君主
ウラジーミル・
スーズダリ大公
アンドレイ1世1168?1174
ミハイル1世1174?1176
フセヴォロド3世1176?1212
ユーリー2世1212?1216
コンスタンチン1216?1218
ユーリー2世(復位)1218?1238
ヤロスラフ2世1238?1246
スヴャトスラフ3世1246?1248
ミハイル・ホロブリト(ロシア語版、英語版)1248
アンドレイ2世(ロシア語版、英語版)1248?1252
アレクサンドル1世1252?1263
ヤロスラフ3世1264?1271
ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ1272?1277
ドミトリー1世1277?1294
アンドレイ3世1294?1304
ミハイル2世1304?1318
ユーリー3世1318?1322
ドミトリー2世1322?1326
アレクサンドル2世1326?1327
イヴァン1世1325?1340
セミョーン1340?1353
イヴァン2世1353?1359
ドミトリー3世(ロシア語版、英語版) 1359?1362
ドミトリー4世1362?1389
ヴァシーリー1世1389?1425
ヴァシーリー2世1425?1462
イヴァン3世1462?1505
ヴァシーリー3世1505?1533
イヴァン4世1533?1547
モスクワ大公
ダニール・アレクサンドロヴィチ1263?1303
ユーリー3世1303?1325
イヴァン1世1325?1340
セミョーン1340?1353
イヴァン2世1353?1359
ドミートリー・ドンスコイ1359?1389
ヴァシーリー1世1389?1425
ヴァシーリー2世1425?1462