アレクサンドル・ボグダーノフ
[Wikipedia|▼Menu]
アレクサンドル・ボグダーノフ

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ボグダーノフ(ロシア語:Александр Александрович Богдановアリクサーンドル・アリクサーンドラヴィチュ・バグダーナフ、1873年8月22日ユリウス暦:8月10日)ソコルカ - 1928年4月7日 モスクワ)はロシア内科医哲学者経済学者SF作家革命家。本名はアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・マリノフスキー(Малиновский)といい、民族的にはベラルーシ人である。普遍的なシステム理論から輸血による回春までと、幅広い科学的関心をもっていた。現代ロシアの同姓同名のテノール歌手は別人である。
生涯
第一次大戦まで

地方の教育者の家庭に生まれる。ハリコフ大学医学の学位を取得中に、革命活動に身を投じてはたびたび逮捕された。1899年に大学を卒業するも医学の道を棄てて、政治哲学や経済学を究め、ボグダーノフの偽名を用いて、1903年ロシア社会民主労働党に入党する。

その後の6年間は、ボリシェヴィキの中で大物にのし上がり、レーニンに次いでナンバー2の地位を得た。1904年から1906年にかけて全3巻の哲学的な論文『経験一元論』を上梓。この中でボグダーノフは、マルクス主義エルンスト・マッハヴィルヘルム・オストヴァルトアヴェナリウスらの哲学に溶け込ませようと試みている。この著書は数多くのマルクス主義の理論家を魅了し、その一人にニコライ・ブハーリンがいる。

1905年革命の崩壊後、ボグダーノフはボリシェヴィキの過激派を率いて、社会民主労働党の代議士の解任を要請し、なおかつボルシェヴィキの指導権をめぐってレーニンと対立する。両者の不和が調停不能となった1908年中頃までに、ボリシェヴィキの指導陣の多くは、ボグダーノフを支持していたか、あるいは態度を決めかねていた。そこでレーニンは、ボグダーノフの哲学者としての名声を殺ぐことに没頭する。1909年のレーニンの著作『唯物論と経験批判論』は、ボグダーノフの地位を貶め、哲学上の理想主義をなじるものだった[1]

1909年6月に、ボリシェヴィキの雑誌『労働者』の編集主幹によってパリで催された小会合において論破されると、ボグダーノフはボリシェヴィキを脱退し、義兄弟のアナトリー・ルナチャルスキーや、作家マクシム・ゴーリキーらの建神論者に加わってカプリ島に行き、ロシア人職工のための学校を経営する。1910年にボグダーノフとルナチャルスキー、ミハイル・ポクロフスキーならびに彼らの支持者は、学校をボローニャに移して1911年までその経営を続けたが、その間にレーニンとその仲間がパリで同種の学校を始めるようになった。ボグダーノフは1911年に建神論者と手を切ると、革命活動も放棄してしまう。1913年特赦を追うようにロシアに戻った。
第一次大戦後

第一次世界大戦中のボグダーノフは医療に携わり、1917年ロシア革命においては政治的な役割を何も果たさず、政党への再加入の呼びかけにも応じず、ちょうど1820年代アレクセイ・アラクチェーエフのように[2]、新体制を非難した。

1913年から1922年まで、長大な哲学論文『組織形態学―普遍的な組織学―』の著述にのめりこみ、後にサイバネティクスによって考究されたさまざまな基礎概念を提起した。1918年にボグダーノフはモスクワ大学に経済学の教授の地位を得るとともに、新設された社会主義社会科学アカデミーの総裁も兼務した。

1918年から1920年までボグダーノフは、プロレタリア文化運動「プロレトクリト」の提唱者・理論家の一人であった。ボグダーノフは著作や講演において、「未来の純粋なプロレタリア文化」に肩入れするあまりに、「旧弊なブルジョワ文化」の完全な破壊を要求している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef