ソビエト連邦の政治家アレクサンドル・グリゴリエヴィチ・チェルヴャコフАлександр Григорьевич Червяков
Аляксандр Рыгорав?ч Чарвяко?
1935年
生年月日 (1892-03-08) 1892年3月8日
出生地 ロシア帝国ミンスク県イグメン郡
アレクサンドル・グリゴリエヴィチ(ゲオルギエヴィチ)・チェルヴャコフ(ロシア語: Александр Григорьевич (Георгиевич) Червяков、1892年3月8日 - 1937年6月16日)、民族名アリャクサンドル(アリャクサンダル)・ルィホラヴィチ・チャルヴャコウ(ベラルーシ語: Аляксандр (Аляксандар) Рыгорав?ч Чарвяко?)は、ソビエト連邦で活動したベラルーシ人の政治家。
生涯
青年期(ロシア語版)の貧しい[1]農家に生まれた[2]。14歳から働き始め、市立学校を卒業後、1909年に教職資格を得て[2]ヴィリナ県トロキ郡 (ru) の学校で教えた[1]。働きながら1915年にヴィリナ教育学院 (ru) を卒業した[1](学校からの評価は「有能で知的だが思想的に疑わしい」というものだった[3])。
その後はヴィリナ市立学校で教えていたが、同年8月から10月まではモギリョフに疎開し、同月からトゥーラの第77予備連隊に召集された[4]。翌1916年3月から7月までモスクワのアレクサンドル軍学校 (ru) に学び、卒業後は[5]同月からイルクーツクで第11予備連隊の旗手(ロシア語版)を務めた[4]。翌1917年2月から5月まではオラニエンバウムの機関銃学校でも学んでいる[4]。5月にペトログラードで発生したボリシェヴィキ蜂起にも積極的に参加[6]。同月から11月まではリゴヴォ(英語版)の第2機械銃予備連隊行軍機関銃隊隊長を務めた[4]。従軍中も、軍隊内で革命団体の組織や宣伝活動を行っている[7]。
内戦期白ロシア中央党組織第2回会議(1917年10月28日・ミンスク)
同年9月にはペトログラードで白ロシア社会民主労働党(be, ボリシェヴィキ白ロシア局)の創立者の一人となり[4]、12月の第1回全白ロシア大会(ベラルーシ語版)にも出席[8]。翌1918年2月13日からはロシア・ソビエト共和国民族問題人民委員部の白ロシア人担当委員 (be-x-old) に就き[5]、同年8月には師団政治将校に任じられたが、負傷して退任[1]。同年9月から12月までは軍事委員(ロシア語版)全ロシア局文化・教育部部長に就いた[5]。
同月から翌1919年1月までは白ロシア社会主義ソビエト共和国臨時政府 (be-x-old) の一員となり[5]、同月1日の憲法 (be) にも署名している[6]。同月19日から翌1920年7月31日までは白ロシア共和国およびリトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国の教育人民委員に就き[5][9]、同時期にはリトアニア=白ロシア共和国中央執行委員や赤軍第16軍(英語版)および西部戦線(ロシア語版)文化・教育・政治担当者[1]、革命軍事会議メンバーでもあった[7]。