アレクサンドル・コルチャーク
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ロシア帝国政治家アレクサンドル・コルチャークАлекса?ндр Колча?к
コルチャークの肖像写真
生年月日1874年11月4日
出生地 ロシア帝国
サンクトペテルブルク
没年月日 (1920-02-07) 1920年2月7日(45歳没)
死没地 ロシア帝国
イルクーツク
出身校サンクトペテルブルク海軍兵学校(ロシア語版)
前職海軍軍人
所属政党無所属
配偶者ソフィア・フョードロヴナ・コルチャーク (1876?1956)
親族ロスチスラフ・コルチャーク (1910?1965),
タチアナ・アレクサンドラヴナ (1908?1909),
マルガリータ・アレクサンドラヴナ (1912?1914)
サイン
臨時全ロシア政府
最高執政官
内閣ヴォロゴーツキイ内閣
ペペリャーエフ内閣
在任期間1918年11月18日 - 1920年1月14日
ロシア軍
最高司令官
内閣ヴォロゴーツキイ内閣
ペペリャーエフ内閣
在任期間1918年11月18日 - 1920年1月4日
臨時全ロシア政府
陸軍大臣
内閣アレクセンチエフ内閣
ヴォロゴーツキイ内閣
在任期間1918年11月5日 - 1918年11月20日
臨時全ロシア政府
海軍大臣
内閣アレクセンチエフ内閣
ヴォロゴーツキイ内閣
在任期間1918年11月5日 - 1918年11月20日
ロシア帝国海軍
第2代黒海艦隊司令官
在任期間1916年6月28日 - 1917年6月7日
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軍歴
海軍中将時代のコルチャークの肖像写真 (1916年)
所属組織 ロシア帝国海軍
ロシア軍
軍歴1886年 - 1920年
最終階級 海軍大将
指揮黒海艦隊司令官
ロシア軍最高司令官
戦闘日露戦争
第一次世界大戦
ロシア内戦
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アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コルチャーク(ロシア語: Алекса?ндр Васи?льевич Колча?к, ラテン文字転写: Aleksandr Vasil'evich Kolchak、1874年11月4日グレゴリオ暦11月16日) - 1920年2月7日)は、ロシアの海軍軍人政治家白軍(白衛軍)の総司令官、臨時全ロシア政府最高執政官(1918年 - 1920年)を務める。
概要

全ロシア臨時政府の陸軍・海軍大臣を務めた後[1]白色運動の他の指導者たちによって認められ[2][1]。彼は最高執政官に就任し、ロシア内戦初期時の1918年後半に、白色運動の最高指導者となる。彼は南ロシア政府を統率していたアントーン・デニーキンよりも大きな権力を握っていた[1]。コルチャークの政府はシベリア南西部のオムスクを拠点としていた。

1919年初頭の最初の成功の後、コルチャーク軍は地元住民の支持の欠如と、白軍指導者たちの団結の失敗により、その勢いは停滞した[3]。12月、彼はシベリアの連合国軍事ミッションの指導者、モーリス・ジャナンとチェコスロバキア軍団に裏切られ拘束され、1920年1月に地元の革命派のボルシェヴィキに引き渡された[4][5][6]。翌月、コルチャークはボリシェヴィキによってイルクーツクで処刑された[7]
来歴
海軍に入隊「ザリャー」で勤務するコルチャーク(1900年頃)

1874年、サンクトペテルブルクの貴族の家に生まれる。父は海軍軍人で、クリミア戦争では砲兵部隊を指揮してセヴァストポリ包囲戦に従軍している。1894年に海軍幼年学校を次席で卒業し海軍尉官補となり、一等装甲巡洋艦リューリク」に配属された。1895年から1899年にかけてウラジオストクに配属され、1896年末には、二等巡洋艦「クレーイセル(ロシア語版)」の当直士官に任命された。

1900年には、エドゥアルト・フォン・トル北極海探索に参加し、調査船「ザリャー(英語版)」の指揮を執った。探索は難航し、コルチャークは1902年12月に任務を解かれクロンシュタットに配属されたが、「ザリャー」の探索隊はその後も調査を続け、行方不明となった。コルチャークは北極海探索の功績が認められ、ロシア地理学会(英語版)から最高賞を受賞した。1904年3月、ソフィア・オミロヴァと結婚するが、サンクトペテルブルクに向かう途中に大日本帝国との戦闘に加わるように命令される。
日露戦争

日露戦争開戦時には病気を患っていたが、前線勤務を志願した。当初、艦隊装甲艦「ペトロパヴロフスク(英語版)」の指揮を任命されたが断り、優速の一等防護巡洋艦「アスコーリト(英語版)」への任官を志願した[8]。その数日後、「ペトロパヴロフスク」は日本海軍の敷設した機雷に触れて沈没、コルチャークは九死に一生を得た。

この後、コルチャークは水雷艇「セルジートィイ(ロシア語版)」の艦長として旅順攻囲戦に参加した。セルジートィイにて敷設した機雷で日本海軍の防護巡洋艦「高砂」を撃沈した。旅順要塞の砲兵中隊の指揮を任されたが戦闘で負傷し、旅順開城後捕虜となり長崎の捕虜収容所に4か月間収容されるが、リウマチのためカナダ経由で本国へ送還された。本国に帰国後、旅順戦の功績を称えられ、聖ゲオルギー勲章(英語版)とポルト=アルトゥール軍刀を授与される。1905年4月にサンクトペテルブルクに戻り、少佐に進級する。
第一次世界大戦バルチック艦隊時代のコルチャーク(1916年)

1906年、海軍参謀本部に入り、戦後壊滅した海軍の再建に尽力した。統計班長として、バルト海での作戦計画の立案を指揮した。また、砕氷船の建造に関わり、完成した砕氷船は1909年から1910年にかけて地形調査のためヴァイガチ島を経由してウラジオストクに派遣された。


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