アレクサンドル・グロタンディーク
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アレクサンドル・グロタンディーク
Alexander Grothendieck

生誕 (1928-03-28) 1928年3月28日
ドイツ国ベルリン
死没 (2014-11-13) 2014年11月13日(86歳没)
フランスアリエージュ県サン=ジロン
国籍無国籍
研究分野数学
研究機関IHES
出身校モンペリエ大学
ナンシー大学
博士課程
指導教員ローラン・シュヴァルツ
博士課程
指導学生Pierre Berthelot
ピエール・ドリーニュ
Michel Demazure
Jean Giraud
Luc Illusie
Michel Raynaud
Jean-Louis Verdier
主な業績関数解析学数論代数幾何学
主な受賞歴フィールズ賞1966年
クラフォード賞1988年、辞退)
プロジェクト:人物伝
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アレクサンドル・グロタンディーク(Alexander Grothendieck, 1928年3月28日 - 2014年11月13日[1])は、主にフランスで活躍した、ドイツ出身のユダヤ系フランス人の数学者である。

日本の数学界では彼は「グロタンディク」、「グロタンディック」、「グロタンディエク」、「グロタンディエック」、「グロテンディーク」、「グローテーンディーク」などと表記されている[2][注 1]
業績

主要な業績にスキームの考案による代数幾何学の大幅な書き直し、l-進コホモロジー(エタール・コホモロジー)、クリスタリンヌ・コホモロジーの発見によるヴェイユ予想への貢献、モチーフおよびモチヴィック・ガロア群の考察、遠アーベル幾何学の提唱、子供のデッサン(Dessins d'enfants)の考察等、基本的かつ深い洞察から多くの新たなる分野を開拓した。他降下理論、グロタンディーク群によるK理論への貢献、トポスの理論、アーベル圏によるホモロジー代数の統合、ガロア圏および淡中圏によるガロア理論の一般化などの業績がある。またドリーニュ、イリュージー、ベルテロ等多くの有名な数学者を育てた。数論幾何という用語を提案したのもグロタンディークである。
略歴

実父はウクライナ出身でアナキストのサシャ・シャピロ(英語版)、母はハンブルク出身でジャーナリストのヨハンナ・ハンカ・グロテンディク(フランス語版)。出生時は母の結婚相手ヨハネス・ラダッツ(Johannes Raddatz)の子として「アレクサンダー・ラダッツ」と命名された。しかし二人は1929年に離婚、シャピロは彼を認知したがハンカと結婚はしなかった。ベルリンで過ごしたのち、ナチスを避けて父がフランスへ渡ったのに続いて母と共にパリへ移る。

その後ナチスのフランス占領に伴い拘留され、母親と共にフランスの収容所へ送られたが脱走、母はギュルス強制収容所で終戦を迎え、グロタンディークはオート=ロワール県ル・シャンボン=シュル=リニョン(英語版)で潜伏生活を送った。父サシャも戦時中、アウシュヴィッツ強制収容所に収容された。シャンボンのセヴェンヌ高校(現在のLe College-Lycee Cevenol International)で数学の魅力に開眼した。

終戦後にモンペリエ大学を卒業、ナンシー大学に移りデュドネのもとで研究を始めた。初期の業績に関数解析学に関する研究がある。その後、セールらの影響から彼の関心は代数幾何学へ移り、1950年代後半からのスキーム論による代数幾何学の書き換え、ホモロジー代数層論圏論などへの貢献(特に1957年の論文 グロタンディークのトーホク・ペーパー(英語版)[3])はそれぞれの分野だけでなく数学全体に決定的な影響を与えた。ヴェイユ予想の解決を目標と定め、そのために代数幾何を根底から書き直し、「代数幾何原論 (Elements de Geometrie Algebrique, EGA)」をエウクレイデスの「原論」と同様に13巻刊行しようとした。しかし1巻から4巻まで約1500ページのみが書かれ、5巻以降は未完成。13巻までの内容は弟子たちとともに行われた「マリーの森の代数幾何セミナー (SGA)」という書物となって刊行されている。(1巻から7巻まであり、約6500ページである)。Weil予想に最も貢献したのはGrothendieckの発見した新しいコホモロジー、「エタール・コホモロジー(Cohomologie etale)」であり、Cohomologie l-adique, Cohomologie cristallineなど新しいコホモロジー論を発見。また、Faltings によるMordell予想の解決もGrothendieckのスキーム論を使ったものであった。彼の業績は、数論、代数幾何、位相幾何を統合するものだと評される。ヴェイユ予想そのものは、グロタンディークが切り開いた道具立てを用い、弟子のピエール・ルネ・ドリーニュにより未解決の二つが解決された。ジャン・デュドネとともにIHESの最初のパーマネントの数学の教授に選ばれる。1966年フィールズ賞を受賞、1988年クラフォード賞を受賞(本人は辞退)。1980年代初頭にフランスの市民権を申請したが認められたかは明らかではない。

反戦運動と環境問題に熱心だったことから、1970年頃にIHESに軍からの資金援助があることを知ると、彼は即座にIHESを辞職。その後は、数学から距離を置いた隠遁生活を送るようになった。1985年には自伝的作品"Recoltes et semailles"を執筆しており、これは邦訳が1993年に出版されている(邦題は「収穫と蒔いた種と」)。1988年に彼とドリーニュに対して Crafoord Prize が与えられたが、彼は受賞を固辞した。1991年に彼は家族のもとを去り、その後ピレネー山脈のふもとのアリエージュ県ラセール(英語版)で隠遁生活を送り、タンポポのスープなどの粗食で命をつないでいた(同地に住んでいたことは死後に判明した)。2003年8月には「グロタンディークは元気だが、あいかわらずだれにも会いたがらない」と伝えられている[4]

2010年1月、グロタンディークはリュック・イリュージー(英語版)に手紙を書き、許諾のないすべての著作を削除する依頼をした。これを受けて、多くのインターネットコンテンツが削除された[5]

2014年11月13日の朝、ラセール近くのサン=ジロンの病院で死亡。86歳没。

2017年5月、遺された膨大な手書きメモや草稿、タイプ原稿、などの一部(約1万8千ページ)がデジタルアーカイブとして仏モンペリエ大学のサイトにて公開された[6][7]
12テーマ

Recoltes et Semaillesにおいてグロタンディークは研究すべき12テーマをあげている。
位相的テンソル核
核型空間

"連続"と"離散"の双対性 (導来圏と六つの演算)

グロタンディーク‐リーマン・ロッホの定理の一般化 (K-理論、交叉理論との関係)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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