アレクサンドリア図書館
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この項目では、古代の図書館について説明しています。2001年に開所した施設については「新アレクサンドリア図書館」をご覧ください。

アレクサンドリア図書館19世紀の芸術におけるアレクサンドリア図書館の描写。ドイツの芸術家、O・フォン・コルヴェンが当時入手可能な考古学的証拠を一部用いて描いた[1]
プトレマイオス朝
種別国立図書館
創設おそらくプトレマイオス2世の治世中(前285年-前246年)[2][3]
所在地エジプトアレクサンドリア
収蔵情報
収蔵品種あらゆる文献[4][5]
収蔵数巻物の蔵書数は4万巻から40万巻まで想定は多様である[6]。おそらく10万冊の本に相当する[7]
その他
職員数最大時には100人以上の学者を雇用していたと見られる[8][9]

アレクサンドリア図書館(アレクサンドリアとしょかん、古希: Βιβλιοθ?κη τ?? ?λεξανδρε?α? - Biblioth?k? tes Alexandrei?s)は、プトレマイオス朝時代からローマ帝国時代にかけ、エジプトアレクサンドリアに設置されていた図書館である。古典古代世界における最大かつ最も重要な図書館(英語版)であり、ヘレニズム時代の学問において中心的な役割を果たした。図書館自体は、ムセイオンと呼ばれる文芸を司る9人の女神ムサ(ミューズ)に捧げられた、大きな研究機関の一部であった[10]
概要

アレクサンドリアに普遍的な図書館を置く着想はおそらくファレロンのデメトリオスの提案による。デメトリオスはアテナイ人の亡命政治家で、プトレマイオス1世時代にアレクサンドリアに暮らしていた。おそらく図書館の建設はプトレマイオス1世のもとで計画されたが、実際の建設は息子のプトレマイオス2世の治世に始められたと考えられている。プトレマイオス朝の王たちの強引かつ出費を惜しまない蒐集により、速やかに膨大な数のパピルス文書が収集された。それらがどのくらいの量なのか、いつ頃まで保管されていたのかはわかっていない。その規模の推計は4万巻から40万巻までの範囲におよび、50万巻もしくは70万巻という伝承もしばしば用いられる。

アレクサンドリアは古典古代において知識と学習の中心とみなされるようになったが、それには大図書館の存在が一役買っている[11]。前3世紀と前2世紀の間、多くの重要な影響力のある学者たちが、この図書館で研究した。そうした多数の学者の中にはホメロスの叙事詩の標準版となる校訂を行ったエフェソスのゼノドトス(英語版)、世界初の図書目録とも考えられる『ピナケス』を書いたカリマコス、叙事詩『アルゴナウティカ』を書いたロドスのアポロニオス、地球の円周(英語版)を数百キロメートル程度の誤差で計算したキュレネのエラトステネス、ギリシア語の発音記号(英語版)体系を開発し、詩の文章を初めて行ごとに分割したビュザンティオンのアリストファネス(英語版)、そして広範な注解と共にホメロスの叙事詩の決定的な版を作成したサモトラケのアリスタルコスなどがいる。プトレマイオス2世の治世中、この図書館の姉妹館がセラペウム(英語版)に建設された。これはギリシアとエジプトの習合神セラピス(サラピス)の神殿である。

この図書館が焼かれて破壊されたという物語は広く知られているが、実際にはこの図書館は数世紀の間に徐々に衰退の道を辿った。プトレマイオス8世治世中の前145年の知識人たちの追放と共に衰退が始まった。この時の追放の結果、図書館長であったサモトラケのアリスタルコスは職を辞し、キプロス島へ亡命した。ディオニュシオス・トラクスアテナイのアポロドロスを含む他の多くの学者たちは別の都市へ逃亡し、その地で講義と指導を続けた。この図書館(あるいはその蔵書の一部)は、ローマの内戦中の前48年にユリウス・カエサルが放った火によって意図せず焼失した。しかし、この時の図書館の正確な破壊の程度は不明であり、図書館自体は残存したかあるいはすぐに再建されたとみられる。地理学者ストラボンは前20年頃にアレクサンドリアのムセイオンを訪れたと述べているほか、この時代のディデュモス・カルケンテロス(英語版)の驚異的な著作活動は、少なくとも彼がこの図書館の史料の一部を参照できたことを示している。

アレクサンドリア図書館は財政的支援の欠如によってローマ時代の間に縮小した。西暦260年までに図書館の会員として学者が雇用されることはなくなったと見られる。また、270年から275年の間にアレクサンドリア市では反乱が発生したため、仮にこの図書館が当時にまだ存在していたとしても、館内に残されていたものは残さず破壊されたものと思われるが、本館の破壊後もセラペウムの姉妹館にはまだ収蔵品が残っていたかもしれない。セラペウムは391年にコプト派キリスト教のアレクサンドリア司教アレクサンドリアのテオフィロス(英語版)が発した布告のもと、略奪と破壊に晒された。しかし、この時には書籍は保管されていなかったと見られ、この図書館は主にカルキスのイアンブリコスの教えに従う新プラトン主義の哲学者たちの集会場として使用されていた。
歴史的背景.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ヘレニズム様式(英語版)で作られたプトレマイオス1世の胸像。前3世紀。ルーブル美術館パリ)収蔵。アレクサンドロス3世の胸像。ローマ時代のコピー(英語版)。オリジナルは前3世紀、古代ギリシア。Ny Carlsberg Glyptotek(コペンハーゲン)収蔵。

アレクサンドリア図書館はこの種の図書館の初めての例ではない[12][3]。ギリシアと中東では図書館の長い伝統が存在していた[13][3]。最初期の文書保管所は前3400年頃、シュメールの都市国家ウルクから記録に残されている。これは文字の発明から間もない時期である[14]。文学作品の学術的収集は前2500年頃始まった[14]。後の古代オリエントの王国や帝国は文書収集の長い伝統を持っていた[15][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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