アレクサンドラ・エクステル
Алекса?ндра Алекса?ндровна Эксте?р
本名アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ・グリゴローヴィチ
誕生日 (1882-01-18) 1882年1月18日
出生地 ロシア帝国 ビャウィストク
死没年1949年3月17日(1949-03-17)(67歳没)
死没地 フランス フォントネー=オー=ローズ
国籍 ロシア帝国
運動・動向未来派、キュビスム、ロシア構成主義
芸術分野絵画、グラフィック・アート、舞台美術、衣裳デザイン
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アレクサンドラ・エクステル(ロシア語: Алекса?ндра Алекса?ндровна Эксте?р、ウクライナ語: Олекса?ндра Олекса?ндр?вна Е?кстер、Alexandra Exter、1882年1月18日 ? 1949年3月17日)[1]は、ロシア帝国出身の画家、デザイナーである。パリ、キーウ、モスクワなどを拠点とし活躍、ロシア・アヴァンギャルドの発展に貢献した[2]。絵画、舞台美術に作品が多い。
作風は印象主義からキュビスム、立体未来主義を経て、無対象芸術へと変化した。当初は都市風景を描いていたが、幾何学的な形態の抽象画、静物画、さらにより複雑な抽象的都市風景へと移行していった[2]。パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックのキュビスムとは異なり明るい色彩を積極的に取り入れたため、彼らの批判を浴びることもあった[3]。シュプレマティスム、ロシア構成主義とも関わりを持った。三人の女性の肖像(1909?1910年)、油彩静物(1913年) 1882年、ロシア帝国グロドノ県ビャウィストク(現在はポーランド)の裕福な家庭に生まれる。出生名はアレクサンドラ・アレクサンドロヴナ・グリゴローヴィチ(Александра Александровна Григорович)[3]。父親アレクサンドルはベラルーシ出身の実業家で、母親はギリシャ人であった。 1901年、キーウ美術学校
生涯
幼少期
1907年、パリを訪れ、ギヨーム・アポリネールを通じてパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックと会う。ちょうど『アビニヨンの娘たち』が完成したこの年、キュビスムに触れたことによりエクステルは作風をそれまでのものから大きく変えることとなった[4]。短期間ではあるがモンパルナスのグランド・ショミエール芸術学校でも学んだ[2][5]。
1908年、弁護士のニコライ・エフゲニエヴィッチ・エクステルと結婚、キーウに居を構えた。パリでの体験、ピカソやブラックの実験的作品を語るエクステルのもとに多くの芸術家が集まった[4]。アトリエにはヴァディム・メラー(ロシア語版、英語版)、アナトリー・ペトリツキー(ウクライナ語版、英語版)、パヴェル・チェリチェフ(ロシア語版、英語版)、ウラジミール・バラノフ=ロシネ(ウクライナ語版、英語版)らがいた[6]。また、詩人のアンナ・アフマートヴァ、イリヤ・エレンブルグ、オシップ・マンデリシュターム、ダンサーのブロニスラヴァ・ニジンスカらが訪れた[7]。街(1913年)ロミオとジュリエットのための衣装デザイン(1921年)M.T. Abraham Foundation提供フィジマ(ベルチュガダン)付きスカートの女性の衣装スケッチ(1924年) 1908年、初の展覧会をサンクトペテルブルクとキーウで開いた。特にダヴィド・ブルリュークが主催したキーウでの展覧会は反響が大きく、ロシアの近代絵画の一里塚となった[3]。またダヴィド・ブルリューク、ウラジーミル・ブルリューク兄弟らのグループ「ズヴェノー」メンバーとともに展覧会を開いた。 1909年にパリに拠点を構えた。キュビスムの影響を受けるとともに、フィリッポ・マリネッティ、ジョヴァンニ・パピーニ
画家デビュー
1912年10月、ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、マルセル・デュシャンらピュトー・グループが主催する展覧会「セクション・ドール」に出展した[8]。
1914年にはカジミール・マレーヴィチ、アレクサンダー・アーキペンコ、ヴァディム・メラー、ソニア・ドローネーらフランス・ロシアの画家たちとともにパリのアンデパンダン展に参加した[7]。