アレクサンドラス・ストゥルギンスキス
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アレクサンドラス・ストゥルギンスキス


リトアニア共和国
第2代大統領
任期
1920年6月19日 ? 1926年6月7日
前任者アンターナス・スメトナ
後任者カジス・グリニウス
リトアニア共和国
大統領代行
任期
1926年12月19日 ? 1926年12月19日
前任者ヨナス・スタウガイティス
後任者アンターナス・スメトナ

個人情報
生誕1885年2月26日
ロシア帝国コヴノ県、クタリアイ(リトアニア語版)
死没1969年9月22日
ソビエト連邦
リトアニア・ソビエト社会主義共和国カウナス
国籍リトアニア人
政党キリスト教民主党

アレクサンドラス・ストゥルギンスキス(リトアニア語: Aleksandras Stulginskis [?l??k?s???ndr?s st?l??????n?s?k??s] ( 音声ファイル)、1885年2月26日 ? 1969年9月22日)は、リトアニア共和国第2代大統領(在任:1920年 ? 1926年)。退任後、1926年に元大統領アンターナス・スメトナがクーデター(英語版)を起こすと、数時間ながら大統領代行を務めた。
略歴1922年のポスターに描かれているストゥルギンスキス(左)と米大統領ウォレン・G・ハーディング

最初はインスブルック大学で神学を学んだが[1]、やがて聖職者の道を諦め、ハレ大学農学部に移り1913年に卒業した。卒業後は帰国して農業に従事、作物栽培学の記事を書いた。1918年、『農夫』(?kininkas)と『農夫のカレンダー』(?kininko kalendorius)の2誌の出版を始めた。

第一次世界大戦中にヴィリニュスに移住してキリスト教民主党 の設立に関わり、1917年には同党の中央委員会主席を務め、米国によるリトアニアの国家承認を米大統領ウッドロウ・ウィルソン大統領に求める覚書にも署名した。同時期の政治家アンターナス・スメトナと違い、ストゥルギンスキスは連合国を支持したという。同年のヴィリニュス会議(英語版)の主催者の1人であり、リトアニア評議会(英語版)の委員にも選出された[1]

1918年2月16日、リトアニア独立宣言に署名した[1]。リトアニアの政体については民主共和政を主張し、君主制には強く反対した。独立直後は国軍の編成に専念し、ボリシェヴィキポーランドの侵攻に備えた。

1918年から1919年まで副首相、内相、農業相を務め、1920年から1922年までリトアニア制憲議会(英語版)の議長、並びに暫定大統領を務めた[1]。その後、1922年から1926年までリトアニア共和国大統領を務め、1926年のクーデターの後はセイマス議長(英語版)に当選、1927年4月にセイマスが解散するまで務めた[1]

1927年に政界から引退し、リトアニア西部にある自身の農園の経営に専念したが、ときどき発言して民主制の必要性を説いた[1]。1941年6月[1]に妻と共にソビエト連邦内務人民委員部に逮捕され、妻はコミ共和国に移送されたがストゥルギンスキスはクラスノヤルスクグラグに移送された。第二次世界大戦後の1952年、「戦前のリトアニアにおける反社会主義者と聖職者の政策」によりソ連から25年の懲役刑を言い渡された。


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