アレクサンデル・セウェルス
[Wikipedia|▼Menu]

セウェルス・アレクサンデル
Severus Alexander
ローマ皇帝
胸像(カピトリーノ美術館所蔵)
在位222年3月 - 235年

全名マルクス・ユリウス・ゲッシウス・バッシアヌス・アレクシアヌス
Marcus Julius Gessius Bassianus Alexianus
カエサル・マルクス・アウレリウス・セウェルス・アレクサンデル・アウグストゥス
Caesar Marcus Aurelius Severus Alexander Augustus(即位時)
出生209年
アルカ・カエサリア
死去235年
マインツ
簒奪マクシミヌス・トラクス
子女なし
王朝セウェルス朝
父親マルクス・ユリウス・ゲシウス・マルキアヌス(継父説あり)
母親ユリア・アウィタ
テンプレートを表示

マルクス・アウレリウス・セウェルス・アレクサンデル・アウグストゥス(ラテン語: Marcus Aurelius Severus Alexander Augustus[1] 209年 - 235年)は、第24代ローマ皇帝で、セウェルス朝の皇帝としては5人目(セプティミウス・セウェルスカラカラゲタヘリオガバルス)となる。彼の死をもってセウェルス朝は50年程の歴史に幕を下ろし、軍人皇帝時代とも呼ばれる「3世紀の危機」が始まった。

アレクサンデルは先帝ヘリオガバルスの従弟(母同士が姉妹)として生まれた。実権を握る祖母ユリア・マエサに支持を失ったヘリオガバルス帝の「代わり」として担ぎ出され、ヘリオガバルスの養子として台頭した[2]。一時は危険視したヘリオガバルスに幽閉されるが、これが近衛隊の反乱を引き起こしてヘリオガバルスは処刑された[3]

即位したアレクサンデル帝の治世は、東方で勢力を増しつつあったサーサーン朝ペルシア帝国の脅威に晒されつつも、軍事行動を控えて平和路線をとっていた。しかし、ゲルマニア方面での軍事作戦に消極的な態度を繰り返したことで軍の不興を買い、最終的に軍によって殺害された。
即位

属州フェニキアのアルカ・カエサリア(英語版)市[4]でマルクス・ユリウス・ゲシウス・マルキアヌスとユリア・アウィタの子として生まれ、マルクス・ユリウス・ゲッシウス・バッシアヌス・アレクシアヌス(Marcus Julius Gessius Bassianus Alexianus)と名付けられた[5]。父マルキアヌスはシリア属州の政務代行官(プロマギストラテス(en:Promagistrate))を務める貴族であった[6]。母アウィタはセウェルス朝の外戚バッシアヌス家の出身で、ヘリオガバルス帝の母ソエミアスの妹であった[7]。従ってヘリオガバルス帝と同じくカラカラ帝やゲタ帝、セウェルス帝といった同王朝の皇帝達の血縁者という立場にあった[8]。但し、Icksはマルキアヌスが実父という説に異議を唱え、212年以前にアウィタと結婚することができず、アレクサンデルの実父はアウィタの最初の夫と主張している。

221年、バッシアヌス家の女当主である祖母ユリア・マエサは暴政を続けるヘリオガバルス帝とソエミアスを見切り、もう一人の孫を皇帝にすべくアレクサンデルをヘリオガバルスの養子とした[9]。翌年、ヘリオガバルスとソエミアスは近衛隊に処刑され、その遺体は市中を引き回された挙句にティベレ川に捨てられた[10]

即位したバッシウスはカエサル・マルクス・アウレリウス・セウェルス・アレクサンデル・アウグストゥス(Caesar Marcus Aurelius Severus Alexander Augustus)に改名した。
治世
母による補佐と軍縮政策

アレクサンデル帝は若く穏やかな性格の持ち主であったが、同時に母や祖母の言いなりでもあった[11]。アウィタは姉ソエミアスが息子から実権を奪っていたのと同じように、アレクサンデルを通じて取り巻き達と実権を掌握した[12]。その中には法務官ドミティウス・ウルピアーヌスなどが含まれた[13]。アウィタはアレクサンデル帝の成長に従って実権掌握の程度を変更する態度を見せたが[14]、権力への執念は変わらなかった[15]。アレクサンデルの后妃となったサッルスティア・オルビアナ(英語版)とその一族が新たな外戚として権力をバッシアヌス家から奪うと、激しい怒りを見せて宮殿から彼らを追放しようとした[16]

また、セウェルス朝の権力の源泉であった軍から距離を置くことで膨大化した軍事費の抑制を図り[17]、アレクサンデルも軍とは距離を置いた[8]。しかし結果として帝国の各地で反乱が相次ぎ、更に帝都ではウルピアヌスの振る舞いが近衛隊の不興を買った[18]。近衛隊がウルピアヌスへの反乱を起こすと民衆や各地の軍もこれに加わり、帝国は騒乱状態に陥った。幸運にもアレクサンデル自身に刃は向けられず、ウルピアヌスが殺害されるに留まったが[16]、動乱の中でカッシウス・ディオなどアレクサンデル帝に近い要人が宮殿から追放され[19]、各地の属州でもアレクサンデル派の総督への忠誠拒否が相次ぎ、軍との対立が顕著となった[16]

他に治世で特筆すべき点には、アレクサンドリナ水道の建設が挙げられる[20]ユリア・アウィタ
対外戦争

軍との対立を抱えつつも平穏な統治が続いていたが、サーサーン朝ペルシア帝国との戦争が破滅の契機となった[12]。歴史家ヘロディアヌスによれば、この戦いでアレクサンデル帝はペルシア軍に屈辱的な敗北を喫したと記されている[21](一方、『ローマ皇帝群像』にはペルシアから大勝利を得た旨の記述がある[22])。その後、次第に帝国軍は体制を立て直して反撃に転じ[23]、アレクサンデルはアンティオキアに陣を構えた[12]。ところがまたもや、アレクサンデル軍はペルシア軍に大敗を喫してアルメニア王国に退き[24]、しかもそこで更なる追い討ちを受けた[25]。ペルシア軍が引き上げたことで破滅は免れたが[23]、帝国軍は異常なまでに規律を乱していた[17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef