アレクサンダー・クロフト・ショー[1]
生誕1846年6月26日
カナダ・トロント
死没 (1902-03-13) 1902年3月13日(55歳没)[2]
日本・東京
職業宣教師
配偶者カテル
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アレクサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw、1846年6月26日 - 1902年3月13日)はカナダ出身の聖公会の宣教師である。
生涯(英語版
1873年(明治6年)9月25日にW・B・ライトと共に英国聖公会福音宣布協会(SPG)最初の日本宣教師として派遣され横浜に着き[4]、築地にあった居留地、今の聖路加病院のあたりにあった田中屋という外人宿に旅装を解いた[3]。しかし、日本人への宣教伝道をしたくとも、日本人との接触を十分に持つことができなかった。イギリスの公使館から、日本人を相手に宣教するならば日本人の町の中に溶け込まなくてはいけないという助言を受け、三田の慶應義塾と通りをはさんですぐ南西隣にあった大松寺に5か月間滞在する[3]。1874年(明治7年)には福沢諭吉の子供たちが英語を習いに来ていたことで福沢の知遇を得て、福沢家の家庭教師として3年間雇われる。そのため、福沢が自宅の隣にショーのために洋館を建て、慶應義塾の英語教師、倫理学教授にも招聘される[3]。また、英国人カテルと結婚した[3]。1874年(明治7年)4月11日には ショーとライトは霊南坂の陽泉寺を借りて本堂内に礼拝堂を設けて、在京英人のための礼拝を始め、日本語の学習も島田弟丸の教えのもとで始めた[5][6]。同年11月30日には、島田弟丸がSPGの日本での最初の入信者として麹町のライト宅でライトから受洗した[5][6]。
ショーは英国公使館付きの牧師という公職を続けながら、日本の指導者たちと幅広くかかわりを持った[7]。1875年(明治8年)も引き続き霊南坂の陽泉寺で在日英国人のための礼拝を行い、日本人への本格的な伝道を開始した[8]。福沢諭吉は慶応義塾の塾生に対するキリスト教教育の機会も与え、ショーは慶應義塾において英語だけではなく聖書も教えるようになった。学生たちは信仰を持ち、1875年(明治8年)のクリスマスに尾崎行雄、金子猪之助、多治見十郎を含めた8人の日本人がショーから洗礼を受けたが、その8人のうちの3人は慶應義塾に学ぶ生徒たちで、その1人が尾崎であった[8][9][10][5]。また、ショーは尾崎に英語に加えて、高等数学を教えている[6]。
1876年(明治9年)に聖パウロ教会(聖アンデレ教会の前身の小会堂)を三田松本町に設立して礼拝を続け[8]、洗礼を受けた人々は70余名にも及んだ[5]。