アレクサンダー・クロフト・ショー
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アレクサンダー・クロフト・ショー[1]

生誕1846年6月26日
カナダトロント
死没 (1902-03-13) 1902年3月13日(55歳没)[2]
日本東京
職業宣教師
配偶者カテル
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アレクサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw、1846年6月26日 - 1902年3月13日)はカナダ出身の聖公会の宣教師である。
生涯

1846年、英領カナダのトロントで生まれた。ショー家は、スコットランドに長く続いた名貴族(クラン・ショー(英語版))で、後にカナダに移住[3]。スコットランドのインヴァネスアイリーン・ドナンドーンレイには、かつてショー家が所有していた城の城跡が現存する。祖先はトロントの開発の先駆者として活躍し、父は当時トロントの連隊長であった。同市内には今でも「ショー通り」の名前が残されている。ショーは、トロントのトリニティ・コレッジで神学を学び、1867年に学士の学位を取得している。1870年に聖公会の司祭となる。

1873年(明治6年)9月25日にW・B・ライトと共に英国聖公会福音宣布協会(SPG)最初の日本宣教師として派遣され横浜に着き[4]築地にあった居留地、今の聖路加病院のあたりにあった田中屋という外人宿に旅装を解いた[3]。しかし、日本人への宣教伝道をしたくとも、日本人との接触を十分に持つことができなかった。イギリスの公使館から、日本人を相手に宣教するならば日本人の町の中に溶け込まなくてはいけないという助言を受け、三田の慶應義塾と通りをはさんですぐ南西隣にあった大松寺に5か月間滞在する[3]。1874年(明治7年)には福沢諭吉の子供たちが英語を習いに来ていたことで福沢の知遇を得て、、福沢家の家庭教師として3年間雇われる。そのため、福沢が自宅の隣にショーのために洋館を建て、慶應義塾の英語教師、倫理学教授にも招聘される[3]。また、英国人カテルと結婚した[3]

ショーは英国公使館付きの牧師という公職を続けながら、日本の指導者たちと幅広くかかわりを持った[5]。1875年(明治8年)からは霊南坂の陽泉寺で在日英国人のための礼拝や、日本人への本格的な伝道を開始した。ほどなくして島田弟丸などにも洗礼を授ける[6]。福沢諭吉は慶応義塾の塾生に対するキリスト教教育の機会も与え、慶應義塾において英語だけではなく聖書も教えるようになった。学生たちは信仰を持ち、1875年(明治8年)のクリスマス尾崎行雄を含めた8人の日本人がショーから洗礼を受けたが、そのうちの3人は慶應義塾に学ぶ生徒たちで、その1人が尾崎であった[6][7][8]。また、ショーは尾崎に英語に加えて、高等数学を教えている[9]

1876年(明治9年)に聖パウロ教会(聖アンデレ教会の前身)を三田松本町に設立[6]。1877年(明治10年)には、ショーは福沢諭吉の援助もあって、現在聖アンデレ教会の建つ芝栄町(芝公園3丁目)に敷地を購入し、自宅を建設[6]。1879年(明治12年)6月4日に、レンガ造りの聖堂(礼拝堂)である聖アンデレ教会が完成する[10][6][11]。当初は「公使館の教会」とも呼ばれ、東京在住の英国人のための英語による礼拝が多かったようだが、日本人のための日本語の礼拝も行われた[6]。また聖アンデレ教会の設立と同時に教会の敷地内に聖教社神学校(現・聖公会神学院)を設立して、日本人の教職者の育成に力を注いだ[4]今井寿道(後の校長)はその門下生である。

1885年(明治18年)頃、リウマチを患っていたショーはたまたま訪れた長野県軽井沢に魅了され、生涯の避暑地にする。また、軽井沢にも教会を設立する(軽井沢ショー記念礼拝堂)。これ以降軽井沢が外国人の間で有名になる。

1886年(明治19年)には、伊藤博文内閣総理大臣が委員長を務めた女子教育奨励会創立委員会の創立委員となり、1887年(明治20年)に女子教育奨励会(現・東京女学館)が設立された[12]

1902年(明治35年)、東京で死去する。現在青山霊園に墓所がある。ショーは「避暑地軽井沢の父」と親しまれ、毎夏、軽井沢では「ショー記念祭」が行われている[6]
家族

1875年2月20日、ショーは英国人女性メアリー・アン・カテル(Mary Ann Cattell、1850-1921)と東京の英国大使館で挙式を行った。アレキサンダー(Alexander、1876年生)、ノーマン(Norman、1878年生)、ドロシア(Dorothea)の3人の子どもは東京で誕生した。1883年、三男のロナルド(Ronald)がロンドンで誕生した。

妻のメアリー・アンは、ショーの死後もしばらく日本に滞在していたが、1921年にカナダへ帰国した。ショー一家と交流のあった政治家尾崎行雄は、そのことについて随筆に「〔ショーの未亡人は〕余程日本が気に入ったと見えて、自分は生涯日本で暮らすと云ふて居ったが、前の大戦以来日本の物価が非常に高くなったので、何を比べてもカナダの方が安いと云ふて、大正10年頃カナダに帰ってしまった」と記している[13][14]

長男のアレクサンダー・ジェームズ・マッキントッシュ・ショー(Alexander James Mackintosh Shaw)は、オックスフォード大学を卒業後、イヴ・グレース・ウッドロフ(Eve Grace Woodroffe)と結婚。英国陸軍のキングス・オウン・スコティッシュ・ボルダラーズ第1大隊の大尉として従軍し、1916年7月9日、フランスボーモンタメル付近でのソンムの戦いで戦死した。彼の名前は、横浜外国人墓地にある第一次世界大戦の連合軍兵士の記念碑に刻まれている[15]


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