アレクサンダー・カルダー
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アレクサンダー・カルダー

アレクサンダー・カルダー(英語: Alexander Calder、1898年7月22日 - 1976年11月11日、アレクサンダー・コールダーとも)は、アメリカ合衆国彫刻家・現代美術家。動く彫刻モビール」の発明と制作で知られている。「色彩の魔術師」とも言われる[1]
概要シュトゥットガルトに設置されている『Crinkly avec disc Rouge』(1973年)

カルダーは代々高名な彫刻家であった家系に生まれたが、若い頃は職人を志向して機械工学の勉強をしてエンジニアとなった。芸術家の道に転向してからは素描(ドローイング)を学び、第一次世界大戦後のパリに出てからは得意の一筆書きを生かした針金彫刻を始め、金属を使った抽象彫刻を制作した。この頃彼は発明の才を生かし、機知やユーモアにとんだ針金作品を使って、一人で操るサーカスの上演を自室で始めたが、そのパフォーマンスが評判となったことで芸術界の有名人になり、パリに集まっていた多くの前衛芸術家たちと知り合い大きな刺激を受けた。特にモンドリアン三原色による幾何学的な抽象絵画に強い影響を受けた彼は、すぐに限られた原色だけによる動く抽象彫刻作品・モビールの制作を開始した。(モビールの命名は、サーカス上演を通じて知り合ったマルセル・デュシャンによる。)

彼の生涯の制作活動の中で特に重要な出来事は、モビールの発明により彫刻作品に実際の「動き」を取り入れたことである。モビールの各部分は動かないときでも微妙なバランスを保って浮かび、動きへの予感をはらんだ緊張感をもたらし、かと思うと不規則に動き相互に影響し合い、その形状はさまざまに変化して同じ姿になることはない。これは「キネティック・アート」と呼ばれる動く美術作品群のさきがけとなった。

彼は床に置くスタンディング・モビールや天井から吊るすハンギング・モビールの制作と平行して、友人ジャン・アルプによって「スタビル」と名づけられた原色の金属板の立体構成による作品も制作する。第二次世界大戦後はアメリカとフランスを往復しながら制作を続け、ついには市街地に置く大型のパブリック・アートも手がけるようになる。それと平行して友人や家族向けの小さなジュエリーの制作や、タペストリーなどのテキスタイル作品のデザイン、航空機の塗装デザインなどにも範囲を広げ、また平和運動などの活動も行った。彼の死後もモビールは身近なものとして今日まで親しまれ、彼の作ったスタビルは世界中の広場にそびえている。
生涯
技術者時代

アレクサンダー・カルダーは1898年、アメリカ・ペンシルベニア州のロートン(Lawton)で生まれた。父アレクサンダー・スターリング・カルダーは高名な彫刻家で、スコットランド生まれの祖父アレクサンダー・ミルン・カルダーも彫刻家であった。二人とも巨大な人物像などや記念碑などを手がけていた。母ナネット・レダラー・カルダーも画家であった。

幼いアレクサンダーは作品制作の仕事を請け負った父とともに、一家で全米を転々とした。両親は8歳のカルダーに工具を与えるなど彼の創造性を高めることに熱心だったが、芸術家になることには反対した。芸術家が、先が不確かで金銭的にも厳しい職業であることをよく知っていたからである。カルダーはニュージャージー州ホーボーケンにあるスティーブンズ工科大学に入り機械工学を専攻し、1919年に卒業した。続く数年間は自動車技師、製図工、治水技師の助手、ワシントン州の木材伐採場の技師などをしたがどれにも満足できず、素描の夜間クラスに通ったこともあった。1922年6月、彼は客船『H.F.アレクサンダー号』のボイラー室の機関士になった。ニューヨークからパナマ運河を通りサンフランシスコに向かう船のデッキで、彼はある朝早く、大海原の水平線の上で昇る太陽と沈む満月が向かい合う様を見て霊感を受け、かねてから関心を持っていた天体の運行の不思議に心を打たれたという。このことが彼を芸術家に導くことになった。

彼は1966年に出版した自伝でこう回想する。『それはグアテマラ沖の穏やかな海の朝早くだった。巻いたロープの束を寝台代わりに横になっていたら、水平線の一方に燃えるような赤い朝日が昇り始め、もう一方の側に月が銀のコインのようになっているのを見た。』[2]
芸術学生の時代赤いモビール、1956年、塗装した金属板と金属棒。モントリオール美術館所蔵

芸術家になることを決めたカルダーは、1923年10月ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに入学して素描のクラスに入り、ジョン・スローンやジョージ・ルークス、ボードマン・ロビンソンといったニューヨークの実績ある画家たちのもとで学んだ。学生の間、彼はタブロイド新聞社でスポーツなどの記事の挿絵の仕事をしていたが、そのときに取材に行ったサーカスにすっかり魅了され、サーカスを描いた無数のスケッチや、サーカスの動物や芸人を題材にして針金を巻いて一筆書きのようにした彫刻を作った。

卒業後、彼は1926年パリに移りアカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールで芸術の勉強を続けた。この時生活のために、機械工学の経験を使い、針金や木を用いて機械仕掛けの玩具作りをはじめたことをきっかけに、針金による彫刻に本格的に取り組むことになる。また彼はフランスに針金のサーカス人形を携えて来ていたが、これも玩具の経験を通してより精密なものになり、針金彫刻を巧みに操って即興的に上演する本物のサーカスに近いパフォーマンスへと作り直した。すぐに、『カルダーのサーカス(Cirque Calder)』はジャン・コクトーを熱狂させたことをきっかけに、パリの前衛芸術家たちの間で有名になり、カルダーはスーツケースに詰めたサーカスを取り出して2時間にわたって上演するショーで入場料を稼いでいた。
針金サーカスの時代

1928年はじめ、アメリカに戻っていたカルダーはニューヨークのワイイー画廊で、人物や動物を簡略化して描いた針金彫刻による初個展を開き、続く10年間をヨーロッパやアメリカで展覧会に参加するために大西洋を往復してすごすことになった。彼は1929年に『サーカス』を携えて乗った大西洋横断航路の客船で、ルイーザ・ジェームズというニューイングランド出身の女性と出会い、1931年に結婚した。


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