アレクサンダル1世_(ユーゴスラビア王)
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "アレクサンダル1世" ユーゴスラビア王 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年10月)

アレクサンダル1世
Александар I
セルブ・クロアート・スロヴェーン国王
ユーゴスラビア国王
アレクサンダル1世
在位1921年8月16日 - 1929年10月3日(セルブ・クロアート・スロヴェーン)
1929年10月3日 - 1934年10月9日(ユーゴスラビア)

出生 (1888-12-16) 1888年12月16日
モンテネグロ公国ツェティニェ
死去 (1934-10-09) 1934年10月9日(45歳没)
フランス共和国マルセイユ
埋葬 ユーゴスラビア王国、トポラ、オプレナツ聖ジョルジェ教会
配偶者マリア・オド・ルムニエ
子女ペータル2世
トミスラヴ
アンドレイ
家名カラジョルジェヴィッチ家
父親ペータル1世
母親ゾルカ・ペトロヴィッチ=ニェゴシュ
宗教キリスト教正教会
サイン
テンプレートを表示
乗馬姿のアレクサンダル王(1926)

アレクサンダル1世(Aleksandar I Kara?or?evi?, Александар I Кара?ор?еви?, 1888年12月16日 - 1934年10月9日)は、カラジョルジェヴィッチ家のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国国王(在位:1921年 - 1929年)、のちユーゴスラビア王(在位:1929年 - 1934年)。アレクサンダル1世の肖像が刻印されたコイン
生涯
前半生

モンテネグロ公国首都ツェティニェに元セルビア公ペータル1世の次男として生まれた。当時セルビアはオブレノヴィッチ家の支配下にあり、亡命中だったカラジョルジェヴィッチ家は欧州各地を流浪していた。アレクサンダルはスイスの普通学校で学び、次いでペテルブルクの大学で学んだ。1903年にセルビアで5月クーデターが発生して父ペータル1世がセルビア王に即位した後も、アレクサンダルはペータル1世に乞うて欧州各地を見学していた。1909年には兄のジョルジェが廃嫡されたため、新たな王太子となった。第一次バルカン戦争中の1913年にはクマノヴォの戦いで大功をたてた。第一次世界大戦中にセルビアが占領されると、ユーゴスラヴ統一を掲げて運動し、戦後のユーゴスラビアの形成に貢献した。[1]
即位

1921年、アレクサンダルはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の王位を継承し、セルビア人の専制体制を築いてクロアチア人の激しい反発を招いた。こうしたクロアチアの抵抗運動を抑えるため、アレクサンダル1世はさらにセルビア人の専制権力を強化した。
1928年議会内暗殺事件と1月6日独裁制詳細は「1月6日独裁制」を参照

1928年6月20日にユーゴスラビア国会の議場でクロアチア農民党指導者のスチェパン・ラディチが射殺(1928年議会内暗殺事件(クロアチア語版、セルビア語版、セルビア・クロアチア語版))されたのをきっかけに、民族対立により議会が機能しなくなると、1929年1月6日にこの政治危機を理由としてクーデターを敢行、独裁政治を布き[1]10月3日に国名をユーゴスラビア王国と改めた。国土は直轄市であるベオグラードと民族分布ではなく分水嶺などの地形により境界を定めた9つの州に分割され、州名には民族名や地域名ではなくその州の主要河川から命名された。これによりクロアチア人はさらに体制への反感を強めた。

1932年11月7日にクロアチア自治派とその他在野派がザグレブでクロアチアの完全な自治権を求める決議を表明すると、1933年中にユーゴスラビア政府はセルビア系以外の政治勢力を弾圧した。多くの政治家が投獄・幽閉・流刑・国外追放された。その中には前農務大臣クルウェッチやスロヴェニア人民党代表で元首相アントン・コロシェツらも含まれていた。特にクロアチア人の反感の高まりを憂慮したアレクサンダル1世は、1933年12月から翌34年1月の約1ヶ月、ベオグラードを離れてザグレブを訪問した。そこで人心緩和と自らの評価回復のため尽力したが、効果は薄かった。[1]
暗殺詳細は「アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件(マケドニア語版)」を参照

ルイ・バルトゥー

ヴラド・チェルノセムスキー
暗殺事件を報じるニュース映画

1934年10月9日マルセイユを訪問したアレクサンダル1世はフランス外相ルイ・バルトゥー(フランス語版)と面会したが、この場に潜伏していた狙撃手ヴラド・チェルノセムスキー(マケドニア語版)により、バルトゥーと共に乗車していた車内で暗殺された(犯人のチェルノセムスキーはその場で警官に射殺されたが、バルトゥーは警官の流れ弾で重傷を負い、手当てが遅れたため数時間後に命を落とした)。この犯行の黒幕はクロアチアの民族主義団体ウスタシャであったとも、ヴァルダル・マケドニア(現在の北マケドニア)のブルガリアへの帰属を求めるブルガリア・北マケドニアの民族主義団体内部マケドニア革命組織であったとも言われるが(あるいはその両方の関与という説も)、真相は現在でも不明である。

チェルノセムスキーがハンガリーで裏書されたチェコスロバキアのパスポートを持ち、彼が属するとされた組織がハンガリーに根拠地を置いていたため、ユーゴスラビアは国際連盟でハンガリーを弾劾する訴告をした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef