アル・ヘイグ
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アル・ヘイグ
生誕 (1922-07-22)
1922年7月22日
出身地 アメリカ合衆国
ニュージャージー州ニューアーク
死没 (1982-11-16) 1982年11月16日(60歳没)
学歴ナトリー・ハイスクール
オーバリン大学
ジャンルビバップ
担当楽器ピアノ
活動期間1944年 - 1982年
レーベルXanadu
Period
Esoteric
Mint
Spotlite
East Wind
Trio
Interplay

アル・ヘイグ(Allan Warren Haig、1922年7月22日 - 1982年11月16日)は、アメリカジャズピアニストビバップ期を代表する白人プレイヤーの一人。
経歴

1922年7月22日、ニュージャージー州ニューアーク生まれ。9歳でピアノを始め、ハイスクール時代から演奏活動に入り、1930年代はビッグバンドナット・キング・コールテディ・ウィルソンなどの演奏に親しむ[1]

ハイスクールを卒業後、沿岸警備隊に入隊。隊務のかたわらボストン周辺でフリーのミュージシャンとして活動。奨学金を受けてオーバリン大学で楽理を学ぶが中退し、1944年にはニューヨークに進出しプロ活動に入る。ヘイグは52丁目を拠点に、ディジー・ガレスピーチャーリー・パーカーチェット・ベイカーなどと共演。1949年にはマイルス・デイヴィスの 『クールの誕生(英語版)』の録音に参加した。

1952年にはロサンゼルスに移り、スタン・ゲッツなどのグループで活動。1954年にニューヨークに戻り、いくつかのレーベルでリーダー作を発表するものの、自宅のあるニュージャージー周辺を活動の場としていたため、次第にジャズ・ジャーナリズムからも遠ざかり、1960年代はわずか1作のアルバムを発表しただけで1968年には妻の殺害嫌疑をかけられるなど(のちに不起訴となる)不遇の時を過ごす[2]

1970年代に入り、マンハッタンのバー「グレゴリーズ」への出演などで糊口を凌ぎ、1973年にはイギリスに移住。翌年秋に発表したアルバム『インヴィテーション』が高い評価を受けて本格的なカムバックを果たす。以後はヨーロッパや日本のレーベル[3]などにも多くの録音を残した。1982年11月16日、心不全のためニューヨークの自宅で死去した[4]
演奏スタイル

アル・ヘイグはビバップ全盛期を代表するピアニストとして知られるが、ヘイグ自身によれば、バド・パウエルの演奏スタイルからの直接的な影響は受けていない[5]。タッチもパウエルより軽やかで、珠を転がすようなシングルトーンや右手のトレモロなどに見られるような、端正で印象主義的な演奏を特長としている[6]

ヘイグは1944年頃にプロの世界に身を投じたが、ギタリスト、タイニー・グライムズのバンドで演奏しているところをディジー・ガレスピーチャーリー・パーカーに誘われて、彼らのグループに入った[2]。ヘイグによれば、彼の演奏スタイルは、パーカーたちの音楽性に合わせるために自己流で生み出したもので、バド・パウエルの演奏を聴いたのはさらに後のことだと言う[5]

ジャズ演奏家としては珍しく昼型の生活を続け、22時以降は仕事をしないというポリシーを貫いたが[1]、1950年代以降にビバップ・ムーブメントが終息したのちは録音の機会にも恵まれず、レストランに昼間出演して糊口をしのいだ[2]

私生活で普段聴く音楽はクラシック音楽で、ラヴェルラフマニノフなどの音楽を好み、マルタ・アルゲリッチロベール・カサドシュなどの演奏を好んだ[4]。ヘイグのアルバムを手がけたプロデューサーの妙中俊哉は、リハーサル中にヘイグがショパンの「英雄ポロネーズ」を弾き始めたと述懐しており、演奏メンバーや録音エンジニアリングに対するこだわりも強かったという[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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