アルフレッド・エマニュエル・スミス・ジュニア(英:Alfred Emanuel Smith, Jr.、1873年12月30日 - 1944年10月4日)は、アメリカ合衆国の政治家である。私的にも公的生活でもアル・スミスと呼ばれた。
ニューヨーク州知事に4期選ばれ、1928年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の大統領候補になった。主要政党の大統領候補者としては、初めてのカトリック教徒かつアイルランド系アメリカ人だった。選挙では共和党のハーバート・フーヴァーに敗れた。
その後エンパイア・ステート会社の社長となり、世界恐慌の時代に建てられたエンパイア・ステート・ビルディングの主唱者となった。 スミスはアルフレッド・エマニュエル・スミスとキャサリン・マルビヒル夫妻の子供として生まれ、当初は多民族社会であるマンハッタンのローワー・イースト・サイド、オリバー通りで育ち、そこは当時建設中だったブルックリン橋が見える所だった。4代前の先祖はアイルランド人、ドイツ人、イタリア人およびイギリス人だったが、アイルランド系アメリカ人社会に属する者とされ、1920年代にその指導的代弁者となった。 スミスが13歳の時に父が死んだ。父は南北戦争の古参兵であり、小さなトラック運送会社を所有していた。14歳の時に家族の残りを支えるために、ジェームズ通り37番にあった教会区学校マンハッタン・セントジェームズ学校を中退しなければならなかった。高校や大学に通ったことはなく、週給12ドルで得た仕事のフルトン魚市場で学んだことで人々のことを識るようになったと言っていた。成功したアマチュア俳優として著名な演説家になった。1900年5月6日、スミスはキャサリン・A・ダンと結婚し、その後5人の子供が生まれた[1]。 スミスの政歴において、労働者階級の出自を利用し、自分を移民と認め、大衆の中の人間であることを表に出した。タマニー・ホールの政治マシーン、特にそのボスであるサイレント・チャーリー・マーフィーに恩義があったものの、汚職とは無縁であり続け、進歩的な法の制定のために働いた[1]。 スミスの最初の政治家活動は1895年の陪審委員会事務所の事務員としてだった。1903年、ニューヨーク州議会議員に選ばれた。1911年トライアングル・シャツウェスト工場火災で100人の労働者が死亡した後、工場労働条件を調査するように指定された委員会の副委員長を務めた。危険で不健康な労働環境に対する改善運動を行い、矯正法案を提出した。 1911年、民主党が州議会の多数を獲得し、スミスは強力な歳入委員会の委員長となった。1912年には多数派では無くなり、スミスは少数派院内総務になった。次の選挙では再度民主党が多数派となり、スミスは1913年の会期で下院議長に選ばれた。1914年には共和党が多数を取り、スミスはまたも少数派院内総務となり、1915年までこの地位にあり、その後スミスはニューヨーク郡(マンハッタン)保安官に選ばれた。この頃まで、ニューヨーク市と州の進歩主義運動の指導者だった。
初期の経歴
政歴