アル・ゴア
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アメリカ合衆国政治家アル・ゴアAl Gore
1994年
生年月日 (1948-03-31) 1948年3月31日(76歳)
出生地 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
出身校ヴァンダービルト大学ロー・スクール中退
ハーバード大学卒業
現職環境活動家
所属政党 民主党
称号ノーベル平和賞
配偶者ティッパー・ゴア(1970 - 2010、別居)
子女カレナ・ゴア
クリスティン・ゴア
サラ・ゴア
アル・ゴア3世
親族アル・ゴア・シニア(父親・連邦上院議員)
サイン
公式サイトAl Gore
アメリカ合衆国
第45代副大統領
在任期間1993年1月20日 - 2001年1月20日
大統領ビル・クリントン
アメリカ合衆国
上院議員
選挙区 テネシー州
在任期間1985年1月3日 - 1993年1月2日
アメリカ合衆国
下院議員
選挙区 テネシー州
在任期間1977年1月3日 - 1985年1月3日
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ノーベル賞受賞者
受賞年:2007年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:人為的気候変動(地球温暖化)についての問題点を広く知らしめ、気候変動防止に必要な措置への基盤を築くために努力したことに対して

アルバート・アーノルド・ゴア・ジュニア(英語: Albert Arnold Gore Jr.、通称:アル・ゴア(Al Gore)、1948年3月31日 - )は、アメリカ合衆国政治家。第45代アメリカ合衆国副大統領(在任: 1993年1月20日 - 2001年1月20日)。テネシー州選出連邦下院議員連邦上院議員を歴任した。環境問題の論客として知られ、環境活動家として活動して2007年にノーベル平和賞を受賞している。2000年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補であった。
生い立ち・家族・人物評

1948年3月31日、ワシントンD.C.にてアルバート・ゴア・シニアとポーリーン・ラフォンの長男として誕生した。父はテネシー州のベテランの民主党上院議員で、ゴアはワシントンD.C.テネシー州カーセッジで幼少期を過ごした。学生時代ゴア一家はワシントンのホテルに住み、セント・アルバンズ・スクールに通学した。夏季休暇中はカーセッジで暮らし、家族の農場で働いた。

1965年ハーバード大学に入学し政治学を専攻した。当時の彼のルームメートは後に俳優になるトミー・リー・ジョーンズであった。彼は1969年6月にハーバード・カレッジを文学士号を取得して卒業した。1974年ヴァンダービルト大学ロー・スクールに入学したが、1976年に中退した。

1970年にメアリー・エリザベス・エイチェソン (ティッパー・ゴア)と結婚した。彼らは高校時代にテネシー州のダンスパーティで出会い、結婚後は4人の子供をもうけた。カレナ (1973年8月6日 - , ドルー・シフと1997年から2010年まで結婚していた)、クリスティン (1977年6月5日 - )、サラ (1979年1月7日 - ) 及びアルバート3世 (1982年10月19日 - )。ゴアには更にワイアット及びアンナ・シフという2人の孫がいる。2010年2月、長年連れ立ったメアリーと離婚することを公表し、別居を始めた。2012年現在は、大口政治資金提供者だったエリザベス(リズ)・キードルと交際中である。

ゴアはナッシュビルの郊外に住み、カーセッジの近くに小さな農場を所有している。一家はカーセッジのニュー・セイレム・ミッショナリーバプテスト教会に通っている。2005年、一家はサンフランシスコのセント・リージスにマンションを購入した。
政歴

1976年の春にロースクールを退学したゴアはテネシー州の選挙区から下院議会選挙に出馬して当選した。3回当選を重ねた後の1984年には下院に出馬せず、上院議会選挙に立候補して当選し、1992年副大統領に選出されるまで務めた。

1988年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬するも予備選挙の段階で敗退し、その後マイケル・デュカキス支持に回っている。

1989年4月3日に当時6歳の息子であるアルバートがボルチモア・オリオールズの開幕戦から帰る途中交通事故に遭い、瀕死の重傷を負った。これを受けてゴアは大統領予備選挙に向けてクリントンに対抗する基盤作りよりも、息子の回復を見守ることを選んだ。そしてその間は環境保護を訴える本(『アース・イン・ザ・バランス』邦題:『地球の掟』)の執筆を行い、それがニューヨーク・タイムズによるベストセラー本のリストに入った。

1991年にはアルバートが提出した高性能コンピュータ法(HPC法)がジョージ・H・W・ブッシュ政権で可決され、後のクリントン政権での情報スーパーハイウェイ構想の端緒となった。

彼の企画した情報スーパーハイウェイ構想に刺激されて、インターネットが爆発的に普及したことは有名である。また、クリントン政権の末期にナノテクノロジーに興味を示し、この研究に対して資金援助した。これが、ナノテクノロジーが世界的に注目されるきっかけになった。
副大統領ホワイトハウスにてビル・クリントン大統領と (1993年8月10日)

1992年アメリカ合衆国大統領選挙に向けて、1992年7月9日にクリントンはゴアを副大統領候補に選んだ。大統領選挙に勝利した後、ゴアは1993年1月20日に第45代アメリカ合衆国副大統領に就任した。そして、クリントンと共に1996年アメリカ合衆国大統領選挙にて再選され、2001年1月20日まで2期8年に渡って副大統領を務めた。

在任中ゴアは表舞台には現れなかったが、多くの専門家は彼をアメリカ合衆国の歴史上最も活動的で多大な影響力を持った副大統領の1人だと考えている。彼の副大統領としての主な業績としてはまず、国家運営の検査と評価が挙げられる。彼は連邦政府の浪費・不正行為などの問題点を指摘し、官僚機構の規模の縮小や規制の撤廃の必要性を強調した。後にこれに関するゴアの改革案[1] が連邦政府の規模縮小に繋がった。


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