アル・ケーライン
Al Kaline
アルバート・ウィリアム・ケーライン(Albert William "Al" Kaline, 1934年12月19日 - 2020年4月6日)は、アメリカ合衆国・メリーランド州ボルチモア出身の元プロ野球選手(右翼手)。右投右打。
現役22年間をデトロイト・タイガース一筋で過ごし、"Mr. Tiger"(ミスター・タイガー)と呼ばれた。 ケーラインは1934年12月19日にメリーランド州ボルチモアで生まれる。家は非常に貧しく、身内でもセミプロの野球選手はいたが、家族は誰も高校まで進学した者はいなかった。 幼少時より少年野球を始め、主に投手をしていたが、ケーラインが8歳のときに自らの左足に骨髄炎を発症してしまい、その患部を除去する手術を受けたために終生左足にハンデを抱くことになってしまうものの、幸い投手であったことから左足に負担がかからずに少年時代を過ごせたという。 高校は地元・ボルチモアのボルチモア・サザン・ハイスクール
経歴
少年時代
後にケーラインは、高校時代の自らを「劣等生」と振り返るが、高校時代の教師と信頼を得たことで無事に高校生活を過ごし、そして野球選手になれたと振り返っている。
メジャーリーガー時代(1953年 - 1974年)1957年、当時22歳
1953年にケーラインは高校を卒業し、デトロイト・タイガースと契約。この時の契約金が3万5000ドル(現在のレートでは33万4459ドル)だったため、当時MLBに適用されていたボーナス・ルール[1]が適用され、同年6月25日タイガースに合流してメジャーデビューを果たし、同年は30試合に出場した。また、背番号も新人時代は「25」をつけていたが、その翌年より「6」をつけることになる。
1955年、20歳のケーラインは152試合に出場、同年のオールスターゲームにも初出場し、この後1967年まで連続出場する。そして、シーズン終了時のケーラインは打率.340、27本塁打、102打点、200安打の成績を記録し、MLB史上最年少の首位打者となり、これがケーライン唯一の打撃タイトルである。MLB史上最年少首位打者は、チームの大先輩タイ・カッブとわずか1日差であった。また、MVP投票でも同年受賞したヨギ・ベラに次ぐ2位投票数を獲得した。
翌1956年も前年の勢いで打率.314、27本塁打、128打点を記録するほか、守備でも18補殺を記録した。1957年、新たに創設されたゴールドグラブ賞を初受賞し、さらに1958年にも23補殺を記録する。
1961年、打率.324を記録し、同年首位打者になったチームメイトのノーム・キャッシュ(.361)に次ぐ打率だった。
1962年は開幕から35試合までに打率.345、13本塁打、38打点を記録したところの同年5月26日、ニューヨーク・ヤンキース戦の試合中に鎖骨を骨折して、この後57試合欠場という長期離脱を余儀なくされた。それでも、復帰後はシーズン終了までに100試合出場して29本塁打、94打点を記録しており、同年のシーズンオフは日米野球に参加(タイガース単独チーム)して来日している。
1963年は打率.312、27本塁打、101打点を記録し、MVP投票でも受賞したエルストン・ハワードに次ぐ得票数を挙げた。
1964年、幼少期より患った左足の骨髄炎から来る痛みに、このシーズンは終始悩まされる。そのため、シーズン終了後に左足の整形手術を受けることになる。この年以降は怪我との戦いが多く、1967年夏にバットのラックに手をぶつけて骨折、翌1968年は腕を骨折して2か月も戦線離脱を余儀なくされた。
しかし、残されたチームメイトらの奮起やメイヨ・スミス監督の適切な起用もあり、チームはアメリカン・リーグ優勝を果たし、ワールドシリーズに出場することになる。セントルイス・カージナルスを相手に迎えたシリーズでのケーラインは29打数11安打、打率.379、2本塁打、8打点を記録し、チームを1945年以来となるワールドシリーズ制覇に貢献した。
1971年、年俸更改でケーラインはタイガースの選手として初の10万ドル(現在のレートで63万1306ドル)をチームより提示されるが、自身はこれを固辞し、9万5000ドルから10万ドルの間を希望する。これには前年の1970年シーズンの打率.278、21本塁打しか記録していなかったことが一因だったという。
1974年は前年より導入された指名打者としてすごし、同年9月24日、故郷ボルチモアでのボルチモア・オリオールズ戦にてデーブ・マクナリーから二塁打を放って通算3000本安打を達成。達成後に、今シーズン限りの現役引退を表明する。その後最終戦となる10月2日までに通算3007安打を記録して現役を引退した。
ケーラインの残した記録のうち、2834試合出場、1277四球、399本塁打はタイガースの球団記録で、特に本塁打はあと1本で400本塁打となっただけに惜しまれた。また、通算3007安打も、タイ・カッブの球団記録(3902安打)に次ぐ第2位と、堂々たる記録である。
引退後ケーラインの背番号「6」。
デトロイト・タイガースの永久欠番に1980年指定。
引退の翌1975年から、2002年までジョージ・ケルらと共にタイガース戦の中継放送に関わり、2002年に退任した後はタイガースの球団特別顧問・アドバイザーとして、後進の指導を行った。
1980年に記者投票にてアメリカ野球殿堂にデューク・スナイダーと共に殿堂入りを果たす。同年、殿堂入りを記念して古巣タイガースはケーラインの背番号『6』をタイガース初の永久欠番に指定した。
現本拠地コメリカ・パークにあるケーラインの銅像は外野守備の名手らしく、外野フェンスに寄りながら捕球する姿となっている。
2020年4月6日、家族より死去したことが発表された[2]。85歳没。なお、死因は明らかにされていない。
選手としての特徴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}