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アル・カポネ
Al Capone
アル・カポネ(1935年)
生誕Alphonse Gabriel Capone
アルフォンス・ガブリエル・カポネ
(1899-01-17) 1899年1月17日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク ブルックリン区
死没 (1947-01-25) 1947年1月25日(48歳没)
アメリカ合衆国 フロリダ州マイアミビーチ パームアイランド島
死因脳卒中に伴う肺炎
国籍 アメリカ合衆国
別名スカーフェイス
暗黒街の顔役
職業ギャング
家具販売業者(自称)
罪名脱税
刑罰懲役
配偶者メアリー・ジョゼフィン・カフリン
子供アルバート・フランシス・カポネ
親父:ガブリエーレ・カポネ
母:テレサ・ライオーラ
有罪判決有罪
署名
アル・カポネ(英語: Al Capone[注 1]、1899年1月17日 - 1947年1月25日)は、アメリカ合衆国のギャング。禁酒法時代のシカゴで、高級ホテルを根城に酒の密造・販売・売春業・賭博業の犯罪組織を運営し、機関銃を使った機銃掃射まがいの抗争で多くの死者を出したことでも知られている。一方で、黒人やユダヤ人を差別しなかったことも伝えられている。頬に傷跡があったことで「スカーフェイス」という通り名があった。家族は妻のメエと息子のソニーがいる。
生涯
生い立ちから暗黒街までアルと母のテレサ
1899年1月17日、アル・カポネはニューヨーク州ニューヨークのブルックリン区にて、イタリアのカンパニア州サレルノ県アングリ出身のイタリア系アメリカ人の家庭に9人兄弟の四男として誕生した[2]。父のガブリエーレは理髪師であり、母のテレーザは裁縫婦であった。
少年時代のアルは6年生まで成績も良かったが、その後は学校をサボタージュするようになった。7年生に進級する頃、担任の女性教師に注意され、殴り合いの喧嘩となって2度と学校には行かなかったという。この頃のアルは遊び好きで、洒落た服を着て外出してはしゃいだりした。また、ビリヤードの名手で町のチャンピオンであったという。
幼友達だったエドワード・ディーン・サリヴァンによれば、アルは無邪気な少年で酒は一滴も飲まなかったが、「アドニス社交クラブ」という暴力の巣窟のような店に出入りしていたという。ここでアルは銃の扱い方を覚え、イタリアン・マフィアの幹部ジョニー・トーリオ[3]とも出会った。
まだ駆け出しの頃、アルはトーリオの紹介でフランキー・イェールと出会う。アルはイェールに気に入られ、彼の店である「ハーヴァード・イン」で皿洗い・給仕・バーテンダー・用心棒まで何でもこなした。そしてイェールに認められて本格的に暗黒街に入った。その時、アルはシチリア出身では無かったためマフィア本流には加われなかった。
1920年(1919年や1921年とする説もある)、アルはトーリオに呼ばれてイリノイ州シカゴへ行った。この頃、アルは、ホワイト・ハンド
を痛めつけたため、ボスのワイルド・ビル・ロベットから狙われていた。他にも2件の殺人事件に関与し、起訴されそうでもあった。そのため、アルにとってこのシカゴ行きは丁度良かった。シカゴへ行く時、アルは友人のラッキー・ルチアーノから2万ドルの餞別をもらったという。シカゴでは、アルは最初ジム・コロシモの売春宿でポン引きなどをしていた。この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習ったという。
その後、アルは1年と経たないうちに、トーリオの犯罪帝国で出世し、賭博場兼売春宿の支配人になった。「雇われ人」から「パートナー」に昇進したアルは、もう以前のように客引きなどをする必要はなくなった。この頃、アルはすでに2万5千ドル近い年収を稼ぐ実業家になっていたという。さらにアルはシカゴに自分名義で家を購入し、ブルックリンから家族を呼んだ。妻子だけではなく母や兄弟たちも呼んだ。その後、ウィリアム・E・ディヴヴァーがシカゴ市長になると政治改革が続くと考え、事業の本部をシセロへ移した。
ダイオン・オバニオンを暗殺[4]した頃から、アルは自分も暗殺されるのではないかという恐怖から警備が厳重になった。どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行き、外出には必ず車を使った。この時期、自宅以外1人でいることは無かったという。
1925年1月12日にハイミー・ワイスとスキーマー・ドルッチとジョージ・モランは最初のカポネ暗殺を企て、アルの車にトミーガンで攻撃した。ボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れるほどの威力であった。運転手は負傷したが、アルは車にいなかったため無事だった。その後トミー・クイリンジョーネという若い運転手が誘拐されて殺害されるという事件があった。 1925年にジョニー・トーリオが敵に襲われて引退すると、アルは組織の縄張りを譲られ、26歳にして組織のトップに立った[5]。アルは酒の密売でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。さらにウィリアム・ヘイル・トンプソンをはじめ、市議会議員、警察などの官憲を買収して、アルは組織の勢力の拡大と安泰化を図った。1920年代のアル・カポネは、実質的に市長ともいえる存在となっていた。1927年頃にはシカゴで有名人となり、1929年にカポネ一家の年間の収益は6200万ドル(現在の貨幣価値に換算すると8億3千万ドル)にもなった。 また、アル・カポネはジャズの大ファンであり、秘密の酒場や会員制クラブで、黒人ジャズ・ミュージシャンに演奏させた[6]。また、黒人やユダヤ人に対して人種差別をしなかった。シカゴのギャングたちは、カポネ以外にもジャズ・ファンが何人もいたという。カポネは白人が密造ウイスキーを扱うと断固たる姿勢を示したが、黒人が密造酒を扱った場合は、それを認めていた。 部下のジャック・マクガーンが「ジョージ・“バグズ”・モラン一味を抹殺すべきだ」と言ったとき、アルにとってもモランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため、それに同意し、彼に1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束をした。 そして1929年2月14日、「聖バレンタインデーの虐殺」は実行された。この事件は全米のマスコミに大きく取り上げられた。虐殺が行なわれた当時、アルはマイアミ・ビーチに滞在していた。警察はアルを疑い電話の記録を調べたが、事件の前後数日間はシカゴからの記録もなかった。 1929年5月、アトランティック・シティで行なわれた暗黒街の会議の後、アルは拳銃の不法所持で自作自演で「逮捕」された。その理由は、「聖バレンタインデーの虐殺」でカポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味だった。このことも会議の議題の一つになっていた。 アル・カポネの刑期は1929年5月17日から1930年3月17日の10ヶ月間だった。刑務所内ではアルは言うまでもなく特別待遇だった。一部資料によると莫大な利益を上げているアル・カポネと、ニューヨークやその他のギャングの仲が悪くなり、アル・カポネが身の危険を感じたためだという話もある。
暗黒街の顔役