アル・アインの文化的遺跡群
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この項目では、アル・アイン(Al Ain, アラブ首長国連邦)の世界遺産について説明しています。アル=アイン(Al-Ayn, オマーン)の世界遺産については「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」をご覧ください。

アル・アインの文化的遺跡群(ハフィート、ヒーリー、ビダー・ビント・サウドとオアシス群)
アラブ首長国連邦

アル・アイン・オアシスの遊歩道
英名Cultural Sites of Al Ain (Hafit, Hili, Bidaa Bint Saud and Oases Areas)
仏名Sites culturels d’Al Ain (Hafit, Hili, Bidaa Bint Saud et les oasis)
面積4,945.45 ha (緩衝地域 7,605.46 ha)
登録区分文化遺産
文化区分建造物群[注釈 1]
登録基準(3), (4), (5)
登録年2011年(第35回世界遺産委員会
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図
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使用方法表示
アル・アイン周辺の景観

アル・アインの文化的遺跡群(ハフィート、ヒーリー、ビダー・ビント・サウドとオアシス群)は、古代ペルシア湾 [注釈 2]沿岸に展開し、メソポタミア文明インダス文明の諸都市と交流を持っていたウンム・アン=ナール文化の遺跡群などを対象とする、UNESCO世界遺産リスト登録物件である。その構成資産は、アラブ首長国連邦 (UAE) のアブダビ首長国第2の都市アル・アインおよび周辺に点在する計17件であり、考古遺跡のほかオアシス、灌漑施設などが含まれる。これらの文化遺産は、砂漠地域における先史時代から現代に至る生活様式の歴史的変遷や、持続可能性を伝える点などが評価され、2011年第35回世界遺産委員会で登録された。アラブ首長国連邦では、最初に登録された世界遺産である。
歴史「ウンム・アン=ナール文化」も参照

アル・アインドバイアブダビなどの湾岸に発達した大都市と異なり、内陸のオアシスで古くから発達した都市である(「アル・アイン」は「泉」を意味する[1])。その周辺での人類の活動の痕跡は紀元前5千年紀にまで遡り、その時期はより北方で栄えたメソポタミア文明ウルク期よりも前に当たる[2]。その時期のアル・アイン周辺での活動跡としては、人間、オリックスガゼルなどを描いた岩絵が発見されている[3]。それから長らくメソポタミアの文化との接点は乏しかったが、ハフィート期に大きく変化する[4]。ハフィート期の名はアル・アイン近郊のハフィート山(英語版)(ハフィト山)にちなんでおり[5]、そこで発見された積石塚墳墓群の様式も「ハフィート式」と呼ばれる[6]。そこから出土した副葬品にはメソポタミア製の土器が含まれ、その様式がメソポタミアのジェムデト・ナスル期に属することから、アル・アイン周辺のハフィート期も同じ時期、すなわち紀元前3100年から前2800年頃に対応すると推定されている[6][7]。ジェムデト・ナスル期の土器の発見は、ハフィート期にメソポタミアとの交易が行われていたことを示すものであるが[8]、この時期の遺跡からはそれまでの時期には見られない、地元製の土器も発見されている。地元産であることは使われている土の化学的組成から確かだが、それ以前の時期に土器作りの伝統が見られないことと、その様式がテペ・ヤヒヤ(英語版)遺跡(イランケルマーン州)出土の土器に酷似することから、テペ・ヤヒヤの人々がオマーン半島の銅山開発のために、ある種の「植民」を行っていたとも言われている[9]。なお、現代まで続いているオマーン半島の銅山開発が、この時期に始まっていたことを示す直接的物証は発見されていないが、多数説では確実視されている[10]

この後、オマーン半島周辺はウンム・アン=ナール文化(紀元前2800年 - 前2000年頃)を迎えることとなり、ことにアブダビ市に含まれるウンム・アン=ナール島(ドイツ語版)を首都とする都市文明が栄えた紀元前2500年以降は「ウンム・アン=ナール文明」とも称される[11]。しかしながら、ウンム・アン=ナール島の遺跡は層序によって相対年代を確立させられるものの、絶対年代を確認する物証がなかった。それに対し、ウンム・アン=ナール文化圏に属したアル・アイン近郊のヒーリー遺跡群では、ウンム・アン=ナール島の遺跡と並行する相対年代を確立できるだけでなく、一部の層については放射性炭素年代測定によって絶対年代を突き止めることができた[12]。これはウンム・アン=ナール文化全体の年代を測定する手がかりとなっており[12]、直上で示した年代もそうした研究から推定されたものである。この時期のオマーン半島一帯は、メソポタミア文明インダス文明の諸都市との交易を積極的に行い、を輸出する一方、メソポタミアの農産物やインダスの象牙などを輸入する「国」を形成していた[13]。その「国」が、メソポタミアの史料で「マガン」と呼ばれていた国であろうと有力視されており[14]、アル・アイン周辺もこのマガン国の支配下にあったと考えられている[15]

このウンム・アン=ナール文化は紀元前2000年ごろにその中心がバーレーン島に移り、ディルムンになったと考えられている[16]。代わりに、オマーン半島周辺にはそれまでのような国際性を持たないワーディー・スーク文化が展開したが、これは域内で見た場合には「衰退」局面に当たり[17]、いつごろ終わったのかも明確には特定されていない[18]

この古代遺跡群の調査が本格化したのは1960年代以降のことである。ディルムン探求の一環でバーレーン砦遺跡やウンム・アン=ナール島の調査に当たっていたジョフレー・ビビー(英語版)ら、デンマークの調査隊は、1959年にその調査を視察したシェイフ・ザーイド(後のUAE初代大統領)から、ザーイドが治めるブライミ[注釈 3](アル・アイン)周辺にも同種の遺跡が「数百」あることを教えられ、調査に来てはどうかと招かれた[19]。それから間もなく現地を見に行ったビビーは、そのときの様子をこう述べている。…数百の円丘というのは根拠のないことではなかった。われわれの周囲の尾根のあたりにもそのくらいの数はあり、目があたりに慣れてくると、ハフィト山へ至るあらゆる崖、山頂、突出部に円丘を見ることができた。 ? ジョフレー・ビビー(矢島文夫二見史郎訳)[20]都市化が進んだアル・アイン中心部(2015年)

ただし、資金・物資調達の都合などから、それらの正式な発掘が開始されたのは1962年のことであった[21]。その後も断続的に調査が行われ、遺跡の年代や出土品に関する知見が蓄積されていった。たとえば、ハフィート山の墓所は1962年からの調査で発見された銅剣の様式を基に、紀元前1300年と見積もられていた[22]。しかし、そこで発見されていた土器がジェムデト・ナスル期に属することが後に確定したことで、本来の年代が確定すると共に、銅剣は時代を隔てた墓所の再利用によるものであったと理解されるようになった[7]

そのハフィート山での調査の延長線上で、アル・アイン近郊のヒーリー地区でも発掘が行われた。その調査で墓群だけでなく集落跡も発見され、ウンム・アン=ナール期の内陸における定住生活が明らかになった[23]。ヒーリー地区の遺跡群は現在、公園になっている(後述)。他方で、1960年代以降は石油採掘に後押しされた都市化が急進した時期でもあり、その過程で破壊されてしまった遺跡もある[24]

2004年から2005年にかけて、それら遺跡群やオアシス群など、世界遺産の構成資産となる文化財や景観が相次いで保護法令の対象となった[25][26]
登録経緯

この世界遺産が世界遺産の暫定リストに記載されたのは2008年2月5日のことであり、当初の名称は単なる「アル=アイン」(Al-Ain) で、複合遺産としての推薦だった[27]参考 : アル=アイン (Al-Ayn) の墳墓(オマーンの世界遺産)

正式な推薦書は2010年1月11日に世界遺産センターに提出されたが、この時までに文化遺産としての推薦に切り替えられ、後に正式名になるのと同じ名称で推薦されていた[28]。それを受けて、世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は現地調査も行い、翌年に勧告を行なったが、「登録延期」とするものであった[29]。理由として挙げられたことの一つは、この資産を構成する遺跡の多様性に関する、価値の証明の不十分さであった。この物件にはウンム・アン=ナール文化前後の考古遺跡、近現代の砦、オアシス群、伝統的な灌漑施設ファラジ(複数形はアフラジ)など多彩な文化財、景観が含まれるが、考古遺跡に限れば「バーレーン砦 - ディルムンの古代の港と首都」(バーレーンの世界遺産)や「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」(オマーンの世界遺産)などと時期的・文化的に類似し、アフラジについても「オマーンの灌漑システム、アフラジ」(オマーンの世界遺産)が既に登録されていた[30]。こうした状況を踏まえつつ、この物件を全体として見た時にどのような価値を認められるのかの証明が不十分、という判断が下されたのである[31]。そのため、ICOMOSは顕著な普遍的価値の力点をどこに置くか自体をきちんと練り直し、構成資産を再考すべきことを勧告した[32]

しかし、その年の第35回世界遺産委員会(2011年)では勧告が覆される形で6月27日に正式登録が決議され[33]、17件の構成資産全てについて一括での登録が認められた[34](世界遺産委員会で認められた価値については、後掲の「登録基準」節を参照のこと)。


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