アルヴェス・レイス
Artur Virgilio Alves Reis
1925年撮影
生誕1896年9月8日
ポルトガル、リスボン
死没1955年7月9日(58歳)
ポルトガル、リスボン
罪名通貨偽造
刑罰禁錮8年、国外追放12年
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アルヴェス・レイス(葡:Artur Virgilio Alves Reis、1896年9月8日 - 1955年7月9日)は、1925年に史上最大の通貨詐欺を行ったポルトガルの犯罪者であり、当時の名目GDPの0.88%に達する被害額はポルトガル銀行券危機をもたらした[1]。 ポルトガル経済は1892年と1902年の二度に渡って経済破綻を迎えていた。経済的困窮の原因は産業革命の失敗による友好国イギリスへの工業製品依存と自国産業の後進性であり、ナポレオン戦争による1807年のフランス軍の侵入と金の流出、それに介入してきたイギリス軍による1820年までのポルトガル占領[注釈 1]、そして1822年のブラジルの独立による喪失がそれに拍車をかけていた。イギリスとの貿易均衡はポートワインの大流行によって保たれた時期があったものの需要が収まると均衡は崩れた[2]。競争力の劣るポルトガルの製品はイギリスの需要に応えられず、自国で生産した商品を自らの植民地民に購入させることで資金を集めた。だがそのために強い反発を招き、植民地維持のための軍事費は1974年のカーネーション革命までに国家予算のほぼ半分を費やすほどに増大した[3]。これらの状況でポルトガル政府は国債の発行や通貨の切り下げに対して極度に保守的な財務政策をとり、また国内情勢も不安定であったことから自国の紙幣発行をイギリスやオランダに委託していた[4]。 ポルトガルは1910年にポルトガル王国から第一共和政へと移ったが、第一次世界大戦後も経済は悪化した。1919年から1920年の財政赤字は王政末期の平均の約12倍、物価は1914年から20年の間に452%上昇した。通貨エスクードの対ポンド価値は1918年の7.9から1923年の109.4へと急落し、国外への資本流出が続き、1922年には14の銀行が閉鎖された。経済の悪化によって都市労働者・中産階級・農民らの階層間の対立が激化し、共和政への不満が高まった[5]。 ポルトガルは最初期にアフリカの植民地化に進出した国であり、植民地解放が最後の国となった[6]。アンゴラ沿岸には16世紀から19世紀の奴隷貿易時代にポルトガル商人が進出しており、ルアンダとベンゲラはアフリカ西海岸で最大級の奴隷積み出し港として知られていた[7]。ベルリン会議(1884年-1885年)によってヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が決定すると、ポルトガル領アンゴラが成立した。ポルトガルの商人、農場主、軍人によってアンゴラは支配され、住民は輸出用のコーヒー、綿花、タバコ、落花生などを栽培させられ、鉱山の強制労働にも動員された[注釈 2][9]。アンゴラは本国ポルトガルとの通貨交換が禁止されていた[10]。 アルヴェス・レイスは1896年9月8日にポルトガルの首都リスボンの中流家庭に生まれた[11]。父親は記帳係から葬儀屋に転職し、小規模の高利貸も行っていた。しかし父親は、当時ポルトガルの植民地だったアンゴラの石油採掘のために設立されたポルトガル石油株式会社に投資して破産状態となり、レイスは困窮した幼少期を過ごした[12]。高校卒業後は実業学校に入り、工学を学んだ。しかし入学からわずか一年足らずでマリア・ルイサとの結婚を機に中退し、アンゴラへ居を移した[11]。この時、アルヴェス・レイスは自らの経歴をオックスフォード大学理工学技師学校の出身とする詐称を行った[注釈 3]。レイスが偽造した得業士免状には理工学技師学校長ヘンリー・スプーナーと、オックスフォード大学総長ジョン・D・ピールの署名があり、免状番号のNr. 2148が付けられていた[13]。オックスフォード大学には理工学技師学校はなく、サインされた教授名も大学総長の名前さえも架空でありながらアルヴェス・レイスは政府機関の運河建設部門に迎え入れられた[11]。 レイスは妻マリアとともにアンゴラの首都ルアンダに暮らすことになった[14]。
時代背景
当時のポルトガルの経済と通貨政策
ポルトガルとアンゴラ
生い立ち
アンゴラでの技師生活
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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