アルヴィ・レイ・スミス
Alvy Ray Smith
生誕 (1943-09-08) 1943年9月8日(80歳)
アメリカ合衆国
テキサス州ミネラル・ウェルズ
アルヴィ・レイ・スミス3世(Alvy Ray Smith III、1943年9月8日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州ミネラル・ウェルズ(英語版)出身の計算機科学者である。
ルーカスフィルムのコンピュータ部門やピクサーの共同設立者であり、1980年代から1990年代にかけて、コンピュータアニメーションのフィーチャー映画への進出に貢献した[2][3][4]。 1965年、ニューメキシコ州立大学 パロアルト研究所に在籍中の1974年、リチャード・シャウプ
教育
キャリア
1975年、ニューヨーク工科大学(NYIT)に新設されたコンピューターグラフィックス研究所に入り、Information Quantaという職名を与えられた[6]。ここで従来のセルアニメーションのスタジオと一緒に働いていたスミスは、エドウィン・キャットマルをはじめとする後のピクサーの中心人物たちと出会った。スミスは、初のトゥルーカラー・ペイントソフトである"Paint3"など、新しいペイントプログラムの開発に取り組んだ。その一環として、アルファチャンネルの概念を共同で考案した。1979年までNYITに勤務した後、ジェット推進研究所でジム・ブリンとともにカール・セーガンのテレビシリーズ『コスモス』の制作に携わった。
スミスはキャットマルと共に、ルーカスフィルムのコンピュータ部門を創設し、初期のレンダラー技術を含むコンピュータグラフィックスソフトウェアを開発した[7]。コンピュータグラフィックスプロジェクトのディレクターとして、『スタートレックII カーンの逆襲』のデモ映像を制作・演出したほか、ジョン・ラセター監督の短編アニメーション『アンドレとウォーリーB.の冒険』の企画・演出を担当した[8]。1980年代のある時点で、あるデザイナーが新しいデジタル合成用コンピューターにPicture Makerという名前をつけることを提案した。スミスは、レーザーを使ったデバイスにはよりキャッチーな名前が必要だと考え、Pixerという名前を思いついたが、会議を経てPixarに変更された[9]。
スミスとキャットマルは、1986年にスティーブ・ジョブズの出資を受けてピクサーを共同設立した[10]。ルーカスフィルムからピクサーが分社化された後、スミスは取締役や執行副社長を務めた。ジェフリー・S・ヤングとウィリアム・L・サイモンによるスティーブ・ジョブズの伝記"iConによると、スミスはホワイトボードの使用をめぐってジョブズと激論を交わし、ピクサーを辞めたという[11]。