アルヴィ・レイ・スミス
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アルヴィ・レイ・スミス
Alvy Ray Smith

生誕 (1943-09-08) 1943年9月8日(80歳)
アメリカ合衆国
テキサス州ミネラル・ウェルズ(英語版)
国籍 アメリカ合衆国
出身校ニューメキシコ州立大学(英語版)(1965年学士)
スタンフォード大学(1966年修士、1970年博士)
著名な実績ピクサー共同設立者
スタートレックII カーンの逆襲』のデモ映像
アンドレとウォーリーB.の冒険
アルファチャンネル
HSV色空間[1]
初のRGBペイントソフト
配偶者アリソン・ゴプニック(英語版) (m. 2010)
公式サイト ⇒alvyray.com
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アルヴィ・レイ・スミス3世(Alvy Ray Smith III、1943年9月8日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州ミネラル・ウェルズ(英語版)出身の計算機科学者である。

ルーカスフィルムのコンピュータ部門やピクサーの共同設立者であり、1980年代から1990年代にかけて、コンピュータアニメーションフィーチャー映画への進出に貢献した[2][3][4]
教育

1965年、ニューメキシコ州立大学(英語版)(NMSU)で電気工学の学士号を取得した。同学在学中の1965年に、初めてコンピュータグラフィックスを作成した。1970年、セル・オートマトン理論に関する論文でスタンフォード大学から計算機科学のPh.D.を取得した。指導教員はマイケル・A・アービブ(英語版)、エドワード・J・マクラスキー(英語版)、バーナード・ウィドロー(英語版)の3人だった[5]
キャリア

パロアルト研究所に在籍中の1974年、リチャード・シャウプ(英語版)と共同で、最初のコンピュータ用ラスタグラフィックスエディタ(ペイントソフト)であるSuperPaint(英語版)を開発した。このソフトウェアで、スミスはHSV色空間を採用した[1]。スミスはSuperPaintシステムで初のコンピュータアニメーションを制作した。

1975年、ニューヨーク工科大学(NYIT)に新設されたコンピューターグラフィックス研究所に入り、Information Quantaという職名を与えられた[6]。ここで従来のセルアニメーションのスタジオと一緒に働いていたスミスは、エドウィン・キャットマルをはじめとする後のピクサーの中心人物たちと出会った。スミスは、初のトゥルーカラー・ペイントソフトである"Paint3"など、新しいペイントプログラムの開発に取り組んだ。その一環として、アルファチャンネルの概念を共同で考案した。1979年までNYITに勤務した後、ジェット推進研究所ジム・ブリンとともにカール・セーガンのテレビシリーズ『コスモス』の制作に携わった。

スミスはキャットマルと共に、ルーカスフィルムのコンピュータ部門を創設し、初期のレンダラー技術を含むコンピュータグラフィックスソフトウェアを開発した[7]。コンピュータグラフィックスプロジェクトのディレクターとして、『スタートレックII カーンの逆襲』のデモ映像を制作・演出したほか、ジョン・ラセター監督の短編アニメーション『アンドレとウォーリーB.の冒険』の企画・演出を担当した[8]。1980年代のある時点で、あるデザイナーが新しいデジタル合成用コンピューターにPicture Makerという名前をつけることを提案した。スミスは、レーザーを使ったデバイスにはよりキャッチーな名前が必要だと考え、Pixerという名前を思いついたが、会議を経てPixarに変更された[9]

スミスとキャットマルは、1986年にスティーブ・ジョブズの出資を受けてピクサーを共同設立した[10]。ルーカスフィルムからピクサーが分社化された後、スミスは取締役や執行副社長を務めた。ジェフリー・S・ヤングとウィリアム・L・サイモンによるスティーブ・ジョブズの伝記"iConによると、スミスはホワイトボードの使用をめぐってジョブズと激論を交わし、ピクサーを辞めたという[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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