アルヴィンド・ケジリワル
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インド政治家アルヴィンド・ケジリワルArvind Kejriwal

生年月日 (1968-08-16) 1968年8月16日(55歳)
出生地 インドハリヤーナー州シワニ
所属政党アーム・アードミ党
配偶者Sunita Kejriwal
公式サイト ⇒[1]
デリー首都圏首相
在任期間2015年2月14日 -
デリー首都圏首相
在任期間2013年12月28日 - 2014年2月14日
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アルヴィンド・ケジリワル(英語: Arvind Kejriwal、1968年8月16日 - )は、インドの政治家。デリー首都圏首相。
経歴

1968年ハリヤーナー州シワニ(英語版)生まれ。インド工科大学カラグプル校(英語版)にて機械工学の学位を修得。卒業後、インド国税庁にて税務署職員として勤務する。税務署職員辞任後は社会運動家として活動、アンナ・ハザレ(英語版)の反汚職運動(2011年インドの反汚職運動(英語版)、2012年インドの反汚職運動(英語版))に参加し、アーム・アードミ党を結成した。

2013年12月にデリー首都圏で行われた選挙で「汚職根絶」を掲げデリー首都圏首相に就任した[1]が、2014年2月14日議会が汚職防止法案を否決したことに抗議するため、辞任した[2]。デリー首都圏首相在任中は「汚職撲滅ホットライン」を設置した。この「汚職撲滅ホットライン」の受付時間は午前8時から午後10時までで、公務員が賄賂を要求してきた場合の対応を助言する[3]

その後2015年2月7日デリー首都圏で行われた選挙(2015年デリー首都圏選挙(英語版))において自らが党首を務めるアーム・アードミ党が全70議席中67議席を獲得し躍進しケジリワルは再び首都圏首相に就任する事になった[4][5]。2020年2月8日の選挙でアーム・アードミ党はデリー議会において62議席を獲得し、3期目の政権を担うこととなり、ケジリワルは首相として3期目に入った[6]

2024年総選挙を目前に控えた2024年3月21日に酒類販売政策を巡る汚職に関与した疑いで捜査当局に逮捕された[7][8]

なお、2006年にはマグサイサイ賞を受賞し[9]2014年にはタイム100に選ばれている[10]
生い立ちとキャリア

ケジリワルは、1968年8月16日、インドのハリヤナ州ビワニ県シワニのアグラワル家に、ゴビン・ラム・ケジリワルとギタ・デヴィの3人の子供の長男として生まれた。父親は電気技師で、メスラのビルラ工科大学を卒業した。ケジリワルは幼少期のほとんどをソニパットガーズィヤーバード、ヒサールといった北インドの町で過ごした[11][12]

1985年、インド工科大学の共通入学試験(IIT-JEE)を受験し、全インドランク(AIR)563点を獲得、インド工科大学カラグプル校に入学した[13]。その後、同大学にて機械工学の学位を取得。

1989年にタタ・スチールに入社し、ビハール州のジャムシェドプルに赴任した。1992年、公務員試験受験のため休職し、退職した[11]。カルカッタ(現在のコルカタ)でしばらく過ごす中で、マザー・テレサと出会い、神の愛の宣教者会や北東インドのラマクリシュナ・ミッション(英語版)、ネール・ユヴァ・ケンドラ(英語版)でボランティア活動を行った[14][15]

公務員試験で資格を取得した後、1995年にインド国税庁(IRS)に所得税部門のアシスタント・コミッショナーとして入庁した[16][17][18]。 2006年2月、ニューデリーの所得税部門のジョイント・コミッショナーの職を辞した[16]

2012年、アーム・アードミ党を立ち上げ、2013年のデリー立法議会選挙で勝利した。現在に至るまで、アーム・アードミ党の指導者として活動している。
活動
パリバルタンとカビール

1999年12月、ケジリワル、マニッシュ・シソディア(英語版)らは、国税庁在職中に、デリーのスンダル・ナガル地区でパリバルタン(英語版)(「変化」を意味する)と名付けた運動を始めた。その1ヶ月後の2000年1月、ケジリワルはパリバルタンに専念するため休職した[19][20]

パリバルタンは、公共配給システム(PDS)、公共事業、社会福祉制度、所得税、電力に関する市民の苦情を取り上げていた。登録されたNGOではなく、個人の寄付で運営され、メンバーによってジャン・アンドラン(「民衆運動」)と位置付けられていた[21]。その後、2005年にケジリワルとシソディアは、中世の哲学者カビールの名を冠した登録NGO、カビールを立ち上げた。パリバルタンと同様に、カビールも情報公開(RTI)と参加型の運営に重点を置いていた。ただし、パリバルタンとは異なり、組織的な寄付を受け入れていた。ケジリワルによれば、カビールは主にシソディアによって運営されていたという[22]

2000年、パリバルタンは所得税部門の公的取引の透明性を要求する公益訴訟(PIL)を起こし、また首席長官のオフィスの前でサティヤーグラハを組織した[23]。ケジリワルと他の活動家も電力部門の前に陣取り、訪問者に賄賂を払わないよう求め、無料で仕事ができるよう協力すると申し出た[24]

2001年、デリー政府は州レベルの情報公開法(RTI Act)を制定し、市民が少額の手数料で政府の記録にアクセスできるようにした。これを受けて、パリバルタンはRTIを利用し、人々が賄賂を支払うことなく政府部門で仕事を成し遂げられるよう支援した。2002年には、この地域の68の公共事業に関する公式報告書を入手、地域主導の監査を行い、64の事業での700万ルピー相当の不正流用を明らかにした[20]。2002年12月14日、パリバルタンはジャン・スンバイ(公開ヒアリング)を開催し、市民は地元で開発が進んでいないことについて公務員や指導者の責任を追及した[25]


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