アルレーン・フランシス
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アルレーン・フランシス
Arlene Francis
アルレーン・フランシス(1958年)
生年月日 (1907-10-20) 1907年10月20日
没年月日 (2001-05-31) 2001年5月31日(93歳没)
出生地 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ
国籍 アメリカ合衆国
職業女優、ラジオパーソナリティ
活動期間1928年 - 1991年
配偶者ニール・アグニュー
(m. 1935; div. 1945)
マーティン・ガベル(英語版)
(m. 1946; d. 1986)
著名な家族ピーター・ガベル(英語版)(子)
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アルレーン・フランシス(Arlene Francis、1907年10月20日 - 2001年5月31日[1][2]は、アメリカ合衆国女優ラジオパーソナリティである。長年レギュラーパネリストを務めた『ホワッツ・マイ・ライン(英語版)』を始めとして、多くのゲーム番組にパネリストとして出演したことでも知られる。
若年期

フランシスは、1907年10月20日マサチューセッツ州ボストンでアルレーン・フランシス・カザンジアン(Arline Francis Kazanjian)として生まれた[2]

父のアラム・カザンジアン(Aram Kazanjian)[3]アルメニア出身で、16歳のときにパリで美術を学んでいたが、1894年から1896年にかけてオスマン帝国政府がアルメニアで行った虐殺(ハミディアン虐殺(英語版))で両親を殺された[4]。20世紀初頭にはボストンにスタジオを構え、肖像写真家として活躍した[2]。晩年には画家として活動し、ニューヨークのオークションで販売した[5]

フランシスが7歳の時、父はニューヨークの方がチャンスがあると判断し、一家でマンハッタンワシントンハイツのアパートに引っ越した[6]。フランシスは1993年にサンフランシスコの老人ホームに入るまで、ニューヨークに住んでいた[1]
キャリアアルレーン・フランシス(1950年頃)

フランシスは、フィンチ・カレッジ(英語版)を卒業した後、ニューヨークを拠点にエンターテイナーとして様々なキャリアを積んだ。舞台女優としても活躍し、地元の劇場やオフ・ブロードウェイの芝居に数多く出演し、1975年までに25本のブロードウェイの芝居に出演した。1932年にユニバーサル社の『モルグ街の殺人』で映画デビューし、1970年代まで散発的に映画に出演した。
ラジオ

フランシスは、ニューヨークのラジオ番組のパーソナリティとして有名になり、いくつかの番組で司会を務めた。1938年から1949年の放送終了まで、ラジオのゲーム番組『ホワッツ・マイ・ネーム(英語版)』(What's My Name?)の司会を務めた。この番組には、何人かの男性が共同司会者として登場したが、フランシスはこの番組で唯一の女性司会者だった[7]

1940年、フランシスは初期のラジオ・ソープオペラ番組である『ベティ・アンド・ボブ(英語版)』で主役のベティを演じた[8]

1943年、ラジオのゲーム番組『ブラインド・デート(英語版)』の司会を始め、1949年から1952年まで放送されたテレビ版でも司会を務めた[2]。1950年代から1960年代にかけて、NBCラジオ(英語版)の『モニター(英語版)』に定期的に出演し、1960年から1984年までWOR-AMで昼間のチャットショーの司会を務めた[1]
テレビ『ホワッツ・マイ・ライン(英語版)』の1シーン(1952年)。左からドロシー・キルガレン(英語版)、ベネット・サーフ、アルレーン・フランシス、ハル・ブロック(英語版)、司会のジョン・デイリー(英語版)。1965年の『ホワッツ・マイ・ライン』にて、左からフランシス、サーフ、キルガレン、デイリー

フランシスは、長年に渡りゲーム番組『ホワッツ・マイ・ライン(英語版)』のレギュラーパネリストを務めたことでよく知られている。フランシスは1950年のCBSでの通常放送の第2回で初登場し1967年に放送中止になるまで、そして1968年から1975年まで毎日放送された番組販売版に出演していた。この番組は、ゲストの職業(ライン)をパネリストが当てるというもので、司会者とパネリストの都会的な雰囲気が特徴的な、テレビゲーム番組の定番の一つとなった[1]

フランシスは、『マッチ・ゲーム(英語版)』、『パスワード(英語版)』、『トゥー・テル・ザ・トゥルース(英語版)』などの多くのゲーム番組に出演したほか、マーク・グッドソン(英語版)とビル・トッドマン(英語版)が制作した番組『バイ・ポピュラー・デマンド』で、オリジナルの司会者であるロバート・アルダ(英語版)に代わって短期間司会を務めた[9]

『TVガイド(英語版)』によると、フランシスは1950年代のゲーム番組のパネリストの中で出演料が最も高額な人物であり、プライムタイム版の『ホワッツ・マイ・ライン』では1回の出演につき1000ドルの出演料を受け取っていた。2番目に出演料が高額なパネリストであるドロシー・キルガレン(英語版)とフェイ・エマーソン(英語版)は、1回の出演につき500ドルであった[10]

フランシスはテレビにおける女性出演者の先駆者であり、音楽番組やドラマ以外の番組で主役を務めた最初の一人である。1954年から1957年にかけては、NBCの女性向け1時間番組『ホーム(英語版)』で司会者兼編集長を務めた[2]が、これは放送ネットワークの社長であるパット・ウィーバーが同ネットワークの『トゥデイ』や『ザ・トゥナイト・ショー』を補完するために考案したものである。『ニューズウィーク』誌はフランシスを「テレビ界のファーストレディ」として表紙に掲載した。
映画

ハリウッド映画にも数本出演し、『モルグ街の殺人』(1932年)では、ベラ・ルゴシが演じるマッドサイエンティストの餌食になる通行人の役でデビューした。フランシスは回想録の中で、当時、演技の経験は通っていた修道院の学校で小さなシェークスピア作品に出演したことしかなかったのに、この映画に出演したと語っている[11]。1948年、アーサー・ミラーの戯曲『みんな我が子(英語版)』の映画化作品(英語版)でエドワード・G・ロビンソンと共演した。

1960年代には3本の映画に出演した。ビリー・ワイルダー監督による、ミュンヘンで撮影された『ワン・ツー・スリー』(1961年)では、ジェームズ・キャグニーが演じる主人公の妻を演じている。1963年の『スリル・オブ・イット・オール(英語版)』では、ジェームズ・ガーナーと共演した。1968年には、舞台で何度か演じたことのある『ローラ』のテレビ版に出演した。最後の映画出演は、ワイルダー監督の『悲愁』(1978年)だった。


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