アルメニア系アメリカ人
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アルメニア系アメリカ人
Armenian Americans
????????????1段目:ルーベン・マムーリアン / アーシル・ゴーキー / ウィリアム・サローヤン / ロス・バグダサリアン・シニア(英語版)
2段目:ポール・ロバート・イグネイシャス(英語版) / ジャック・ケヴォーキアン / ジョージ・デュークメジアン(英語版) / アレックス・マヌージアン(英語版)
3段目:シェール / モンテ・メルコニアン(英語版) / ジェームズ・P・バジアン(英語版) / ヴァルタン・グレゴリアン(英語版)
4段目:アンドレ・アガシ / ラッフィ・ホヴァニスィアン / サージ・タンキアン / ダロン・アシモグル
総人口
48万3366人(2011年度アメリカ地域社会調査)
(推定80万人 ? 150万人)
居住地域
ロサンゼルス大都市圏 / 合衆国北東部都市圏
言語
アルメニア語 / アメリカ英語
宗教
キリスト教アルメニア教会が優勢で、その他にアルメニア・カトリック教会(ロシア語版)とアルメニア福音教会(英語版))/ 無宗教

アルメニアアメリカ人(アルメニアけいアメリカじん、英語: Armenian Americans、アルメニア語: ????????????)は、アルメニア人のディアスポラの中でもロシアのアルメニア人に次いで大きなコミュニティを形成している[1]アメリカ合衆国への最初のアルメニア人移民の波は、オスマン帝国1890年代半ばに発生したハミディイェ虐殺(ロシア語版) ハミディイェ虐殺(英語版)や、1915年に発生したアルメニア人虐殺を逃れてのもので、数千人のアルメニア人がアメリカへと渡った。次の波は1960年代から1980年代にかけてのもので、トルコイランレバノンなどの中東各国から、政情不安を理由にアルメニア人たちが移住してきた。同時期にはソビエト・アルメニアからの移住も始まり、ソビエト連邦の崩壊を経てアルメニアの独立後も、経済的理由からアメリカ移住の動きは続いている。

2011年のアメリカ地域社会調査(英語版)による推定では、アメリカ国民のうち48万3366人が、何らかの形でアルメニア人をルーツに持つという。一方、その他の機関やメディアの推定では、アルメニア系アメリカ人の数は80万人から150万人とされている。最大のアルメニア人コミュニティはロサンゼルス大都市圏のもので、2000年の国勢調査(英語版)では16万6498人がそこに暮らしている。これは同年の調査におけるアルメニア系人の総人口である38万5488人の40パーセントを超える。なかでもグレンデールはアルメニア人コミュニティの中心として広く知られている[2]

また、アルメニア系アメリカ人は、世界のアルメニア人ディアスポラのうち最も強い政治的影響力を持っている。アメリカ・アルメニア民族委員会(英語版)やアメリカ・アルメニア人会議(英語版)などの機関は、合衆国政府にアルメニア人虐殺の承認(英語版)を求めるなど、アメリカ=アルメニア関係(英語版)の強化を目指して活動している。
人口

2000年の国勢調査(英語版)では、アルメニア系アメリカ人の総人口は38万5488人であり[3]、翌年にアメリカ地域社会調査(英語版)が行った推定では、アメリカ国民のうち48万3366人が、何らかの形でアルメニア人をルーツに持つという[4]。その他、ドイツ民族学者であるカロリーネ・トーン[5]フォーダム大学のハロルド・タクーシアン[6] が80万人、ミシガン大学ディアボーン(英語版)のデニス・R・パパジアンが100万人[7]、『アルメニアン・ミラー=スペクテイター(英語版)』[8] やドイツの「シュピーゲル・オンライン(ドイツ語版)」[9]、『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス(英語版)』[10] など各紙が120万人、『USニューズ&ワールド・レポート』の「少数民族・先住民族ワールド・ディレクトリ」[11] および『ロサンゼルス・タイムズ[12] が140万人、アメリカ・アルメニア民族委員会(英語版)[13]、『アルメニアン・ウィークリー(英語版)』[14]、『アルメニアン・レポーター(英語版)』[15]、そしてロイター[16] などが、150万人という最も高い見積もりを出している。
歴史
前史

記録に残っている限りで最初にアルメニア人北米大陸を訪れたのは1618年のことで、この時にはペルシャ出身のマルティンというタバコ栽培業者が、バージニア植民地ジェームズタウンへ定住した[17][7]1653年から翌年にかけては、コンスタンティノープルからの2人のアルメニア人が、養蚕のためバージニア植民地へ招かれている[17][7]。その後、17世紀から18世紀にかけても、ごく僅かにアルメニアからの移民が記録に残されている。しかし、ほとんどの場合彼らは単身で入植し、またコミュニティを形成することもなかった。1770年までには70人以上のアルメニア人が入植を果たした[17]1830年代には、オスマン帝国の下で迫害を受けたキリスト教徒を救済しようとする宣教師の運動によって、キリキアや西アルメニア(英語版)からのアルメニア移民の小さな波が起こっている。例えば、コンスタンティノープルにおけるアメリカの宣教学校の生徒であったハチグ・オスカニアン(英語版)は、より高い教育を求めて1834年にアメリカへ渡ったが[17]、彼は後に『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』で働き、ニューヨーク出版協会(英語版)の会長となった[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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