アルメニアの歴史
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アルメニアの国章アルメニアの歴史
先史時代民族の起源  · シュラヴェリ=ショム文化  · クラ=アラクス文化  · ハイアサ  · シュブリア  · ナイリ  · ウラルトゥ
古代アケメネス朝治下アルメニア州
ソフェーネ王国アルメニア王国
コンマゲネ王国

共和政ローマ治下
アルメニア属州パルティア治下
アルメニア王国

中世東ローマ帝国治下サーサーン朝治下
マルズパン・アルメニア

ウマイヤアッバース朝治下アルメニア首長国
アニ王国
 アニ王国の分王国群
ヴァスプラカン王国
カルス王国

十字軍国家系群
フィラレト・バラジュヌニ国家
メリテナ公国
エデッサ公国
ピル公国
ケスン公国セルジューク朝治下シュニク王国
タシル=ジョラゲト王国
アルツァフ王国
キリキア・アルメニア王国ザカリア朝治下
イルハン朝治下
近世オスマン帝国治下サファヴィー朝・ガージャール朝治下イルハン朝?サファヴィー朝治下
ハチェン公国
チュフル=サアドカラバフ州
ハムス
エリヴァニ・ハン国
ナヒチェヴァン・ハン国
カラバフ・ハン国
虐殺ロシア帝国治下
カルス州アルメニア州エリザヴェトポリ県
西アルメニア行政地域エリヴァニ県
近代アルメニア第一共和国
山岳アルメニア共和国
アルメニアSSRアゼルバイジャンSSR治下
ナゴルノ・カラバフ自治州
現代アルメニア共和国アルツァフ共和国

本項では、アルメニア歴史について述べる。

メソポタミアの一部であるアルメニア高原は、世界最古の文明発祥地のひとつとして知られ、そこからは前期旧石器時代の遺物も出土している。紀元前9世紀ごろには、この地にウラルトゥが建設されていたが、この文明が外来の印欧語族の勢力と混ざり合ったことにより、現代につながるアルメニア人が誕生したと考えられている。

紀元前550年ごろになると、アルメニア一帯はアケメネス朝の支配を受けるようになったが、その地方総督であったオロンテス家(アルメニア語版)は次第に独立君主として振る舞うようになっていった。やがてアケメネス朝は倒れ、続くセレウコス朝の支配も弱まると、地方豪族の反乱によって紀元前188年に、最初のアルメニア人による独立国家「アルメニア王国」が誕生した。ティグラネス2世の時代には黒海からカスピ海までを統べる大国となったアルメニアであったが、紀元前66年共和政ローマに敗れ、衰退した。その後のアルメニアはおもにペルシア系のアルサケス朝(英語版)によって統治されることとなったが、紀元後301年にはティリダテス3世(英語版)によって世界最初のキリスト教国教化も成し遂げられている。

4世紀末になるとアルメニアはサーサーン朝の支配下に入ったが、アルメニア文字アルメニア使徒教会など、アルメニア人独自の文化が生み出されたのもこの時代であった。続く2世紀の間、アルメニアは東ローマ帝国ムスリムの双方から支配を受けた。東ローマに移住したアルメニア人の子孫からはマケドニア王朝の創始者となったバシレイオス1世のように、皇帝にまで登りつめる者も現われた。(ただしバシレイオス1世はスラブ人の出身だと言う説もある)ムスリムのアッバース朝の側でも地方君主による反乱が発生し、885年にはバグラトゥニ朝アルメニアとして、アルメニア人たちは独立を取り戻した。しかし、バグラトゥニ朝は東ローマからの激しい干渉を受け、1045年にはその属領へと転落した。この東ローマ支配もほどなくセルジューク朝による支配へ替わり、アルメニア人の中にはこれを嫌ってキリキアへと移住する者もいた。やがてキリキアに定着して力をつけたアルメニア人は、1198年キリキア・アルメニア王国を建設し、この王国は交易国家として広く発展した。

このキリキア王国も1375年には滅び、アルメニア高地側のアルメニア人も、セルジューク朝やイルハン朝などさまざまな統治者の手を、数世紀の間渡り歩いた。近世になると、広く散らばって住むアルメニア人のうち東側の者はサファーヴィー朝、次いでロシア帝国の版図に入り、西側の者はオスマン帝国の住人となった。どちらの地域に住むアルメニア人も、さかんな商活動や芸術への貢献などで、その社会的地位をある程度高めていった。19世紀末になると彼らにも民族意識が生まれ、ロシアとオスマンのアルメニア人を統合しようとする試みも現われ始めた。

しかし、この新たな民族意識は、バルカン戦争第一次世界大戦最中のオスマンでは警戒を招くこととなり、1890年代1915年アルメニア人虐殺の原因にもなった。大戦中の1918年には旧ロシア領を中心としたアルメニア共和国が誕生したが、これはアルメニア人が自ら望んだものではなく、度重なる領土紛争や財政破綻など、その実情も貧弱なものであった。2年後にはアルメニアは、西からのトルコ軍と東からの赤軍に追いつめられ、共産化の道を選んだ。ソビエト連邦に加盟したアルメニア・ソビエト社会主義共和国は大きく工業化したが、同時に政治的な弾圧は絶えず、また祖国の共産化は在外アルメニア人の間にも軋轢を生んだ。

1991年には、ソビエト連邦の崩壊によってアルメニアは独立したが、同時にアゼルバイジャンとの間にナゴルノ・カラバフ戦争が本格化した。停戦後もアゼルバイジャンとトルコからの経済制裁は続いており、ロシアグルジアとの関係も安定しているとは言えない状況にある。
先史時代ヴァヨツ・ゾル地方のアレニ-1複合洞窟(英語版)から発見された5500年前の革靴「アレニ-1の靴(英語版)」詳細は「アルメニアの先史時代(英語版)」および「アルメニア人の起源(ロシア語版)」を参照

チグリス川ユーフラテス川の源流近くに位置するアルメニア高原は、メソポタミアの一部として、世界最古の文明発祥地のひとつとされる[1]。しかし文明の成立以前にも、アラガツ山からは前期旧石器時代アブヴィル期(英語版)の石器が出土しており、ヴュルム氷期を経て中石器時代の遺構も、アルティン山から発見されている[2]。そのほか、刀剣や陶器など新石器時代の幅広い遺物は、現代のアルメニア各地から出土している[3]

また、早くも紀元前7千年紀には、さまざまな用途に加工された黒曜石の品が、トロス山脈を越えたメソポタミア平野へと輸出されていたと推定されており、この時代からすでに、アルメニアではチグリス・ユーフラテス川を利用した河川交易が行われていたとみられる[4]紀元前2千年紀の遺構からは青銅の装飾品も出土しており、さらにはそれらに宝石で象嵌を施す技術も生み出されていた[5]

しかしながら、アルメニア人自体の起源についてはいまだ解明されていない。アルメニア人をフリギアからの移住者とするヘロドトスストラボンの記述はよく知られているが、今日の言語学と考古学からの検討によって、アルメニア人=フリギア人説はほぼ否定されている[6]。一方ヒッタイトの記録によれば、彼らの東方にはハイアサ(ロシア語版)という国があり、この名はアルメニア人の自称である「ハイ」の国を意味する[7]。このアルメニア=ハイアサ説は多くの印欧語学者からの支持を得ている[8]。そのほか、アッシリアの年代記にたびたび交戦の記録がみられる集団「ムシュキ」をアルメニア人と関連づける見方も存在する[9]
鉄器時代ウラルトゥのエレブニ要塞(復元)詳細は「ウラルトゥ」を参照

やがて紀元前9世紀ごろになると、メソポタミアにはアララト山の語源となった帝国、ウラルトゥが建設された[10]。ウラルトゥの始祖とされるアラマは、アルメニア神話においてはアルメニア初代国王の美麗王アラと同一視されている(ただし、ウラルトゥ人(ロシア語版)の民族系統は不明であり[11]、その言語もアルメニア語の属する印欧語族のものではない)[10]

ウラルトゥは、アララト平野の沃地や小カフカース山脈の鉱物資源を目当てに南進し、紀元前8世紀初頭にアララト平野を征服した[12]アラクス川流域には国王アルギシュティ1世によって、紀元前782年エレブニが、紀元前776年にアルギシュティヒニリ(英語版)が城砦として築かれた[13]。ウラルトゥは原住民を殺戮、あるいは奴隷化しながらも、都市の造営や灌漑、耕地開発を進め、やがてこの世紀を通じてアルギシュティヒニリを南カフカース最大の行政都市へと発展させていった[14]

次代の「王中の王」サルドゥリ2世時代の初め、ウラルトゥはさらに勢力を広げ、北シリアでアッシリアを破って西アジアの覇者となった[15]。しかしまもなく、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世の反攻により紀元前743年には北シリアが奪回され、8年後にはアッシリアに首都トゥシュパ(ロシア語版)までの侵入を許した[16]。サルドゥリは辛くもこれを守ったが、ウラルトゥの権勢は著しく衰えた[16]。続くルサ1世もアッシリアのサルゴン2世に敗北した末に自死し、2代後のルサ2世時代になってようやくウラルトゥは一時の安定を取り戻した[16]紀元前7世紀には、ウラルトゥはスキタイキンメリア人などの遊牧民と短い期間の連合を結んで、アッシリアに対抗した[17]


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