アルマンド・カリネスク
Armand C?linescu
1939年
ルーマニア王国 第39代首相
任期
1939年3月7日 ? 1939年9月21日
君主カロル2世
前任者ミロン・クリスティヤ
アルマンド・カリネスク(ルーマニア語:Armand C?linescu、1893年6月4日 - 1939年9月21日)は、ルーマニアの経済学者、政治家。彼は1939年3月から同年9月に暗殺されるまでの6か月間、ルーマニアの第39代首相を務めた。彼は鉄衛団に対して断固反対の姿勢で臨み、カロル2世の独裁政権下でも権力を維持し続けていた。彼は幾度もの暗殺未遂を切り抜けてきたが、ナチス・ドイツの協力もあって、ついに鉄衛団のメンバーによって暗殺された。 アルマンド・カリネスクは、ピテシュティにルーマニア王国陸軍のベテラン兵だったミハイ・カリネスクと、その妻エカテリナの間に生まれた[1]。ミハイ・カリネスクは地主で、比較的裕福な家庭であった[2]。 カリネスクは、中学・高校とピテシュティにあるイオン・ブラティアヌ高等学校 カリネスクは初め、国内で有力だった国民自由党に参加することを考えていたが、彼の政治観点は国民自由党の党首であったイオン・ブラティアヌ
来歴
入党まで
農民党と国民農民党
農民党がルーマニア国民党(英語版)と合併して国民農民党(英語版)が新たに結成された際、カリネスクは党内の左翼側に立った。同じ思想側に立った党員にはミハイ・ラレア(英語版)、エルンスト・イェネ、ミハイル・ゲルメギェアヌ(英語版)、ペテル・アンドレイ(英語版)、ニコラエ・ルプ(英語版)などがいた[2][5][6]。カリネスクは国民農民党のアルジェシュ県担当リーダーとなり[4]、1928年のユリウ・マニウ(英語版)内閣の下で勢力を拡大していく中で、ミハレイクによって農林水産省の第一秘書に任命され[4]、その後にはアルジェシュ県の県知事(英語版)となった。そして1930年には、アレクサンドル・ヴァイダ=ヴォエヴォド(英語版)の下で内務次官を務めた[2][4][6]。
内務次官に就いたカリネスクは、違法化されたルーマニア共産党の動向を監視していた。1929年にルペニ(フネドアラ県にある鉱山町)にて鉱山労働者のストライキ(英語版)が発生した際は、ルーマニア王国陸軍に命じて疑いのある運動家の逮捕を行ったり、1933年にグリヴィツァ(英語版)にて鉄道員のストライキ(英語版)が発生している最中には、軍に命じてストライキ参加者を殺害させていた[4]。
また彼は同様に、1931年に非合法的に結成されたファシズム政党の鉄衛団にも注意を向けていた[6][7]が、この行動は結果として1933年のヴァイダ=ヴォエヴォド内閣の崩壊に繋がってしまった。