この項目では、都市について説明しています。その他の用法については「アルマトイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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市旗市章
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度16分39秒 東経76度53分45秒 / 北緯43.27750度 東経76.89583度 / 43.27750; 76.89583
アルマトイ(Алматы, 発音 [?lm?t?] アルマトゥ、英: Almaty)は、カザフスタン南東部にある都市。人口153万人で同国最大の都市である。同国における経済・教育・文化の中心地であり、「南の首都」とも呼ばれる[2]。
キルギス共和国および中国との国境に近く、南に天山山脈を望む風光明媚な街として知られている。中央アジア最高水準の世界都市であり[3]、1997年まで同国の首都であった。2002年まではアルマトイ州の州都であったが、2003年に州都の地位をタルディコルガンに譲り、政令指定地区とされた。カザフ国立大学(カザフ語版、ロシア語版)をはじめ多くの高等教育機関、政府機関などがある。
1991年にソビエト連邦を解体し、独立国家共同体を始動した協定はここアルマトイで調印された。遷都後の現在でもアルマトイはカザフスタンで最大の都市であり、商工業・文化の中心都市である[4]。
地名アルマトイの街並み近代的なアルマトイの街並み標高4,979mのタルガル峰
日本語に広く定着している「アルマトイ」は町の名前のキリル文字綴りをロシア語の日本語転写の慣例によってカタカナに写した場合、「アルマトゥイ」となるはずのものを、さらに「トゥイ」を「トイ」に略したものである[要出典](ыを参照)。カザフ語の発音に近い「アルマトゥ」と書かれることもある。英語読みでアルマティとすることも。
アルマトゥ(Алматы)は、1921年に現在のカザフスタンの前身である自治共和国が成立する前から町を指して使われていたカザフ語の名称であり[5][6]、19世紀にロシア人がこの地に進出した後もカザフ族からはアルマトゥと呼ばれることが多かった[7]。語源は「リンゴの里」であり、かつては町の近辺にリンゴ林が広がっていたが、現在は都市開発に伴ってリンゴの樹は数を減らしている[8]。
かつて、日本を含め国際的にはこの町はアルマ・アタ(露: Алма-Ата)という名称で呼ばれていた。これは、カザフ語ではなくロシア語での呼称で、ソビエト連邦時代に事実上の公式名称となっていたものである。アルマ・アタ(英:Alma-Ata)は、カザフ語でアルマ(алма)は「リンゴ」、アタ(ата)は「父」を意味するため、「リンゴの父[9][10]」を意味していた。
1854年秋に完成したコサックが建設したヴェールノエ要塞の名は、「忠誠の土地」を意味する言葉である[10]。この要塞の周辺には Bolshaya Almatinskaya Stanitsa という集落が作られた。1867年4月11日に要塞を含めた町は、Almatinskと名付けれられたが、住民の反対によりすぐさま Verniy に改名された[11]。
歴史20世紀初頭に建立されたロシア正教会に属するゼンコフ教会。木造の建築物として世界で2番目の高さを誇る[12]ゼンコフ教会詳細は「アルマトイのタイムライン(英語版)」を参照
アルマトイ郊外の山コクトベ(英語版)には、紀元前10世紀から紀元前9世紀のものと思われる青銅器時代の住居跡が存在する[8]。アルマトイから東50kmに位置する[13]イッシクからは、紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろと推定されるサカ族の遺跡が発掘され、[8]独自の文字が刻まれた銀製のカップが出土した[13]。イッシクのほか、アルマトイ近郊には発掘調査が行われていないサカの遺跡が多く存在する[14]。
中世にはシルクロードの天山北路のオアシスとして、交易が行われていた。アルマトイ近郊の10世紀から13世紀のものと思われる遺跡からは、タンドリ(窯)、焼きレンガ、貨幣が発掘された[8]。出土した貨幣の表面には「アルマトゥ」の名前が刻まれていた。13世紀のモンゴル帝国の中央アジア遠征の後、アルマトイの名前は多くの人から忘れ去られた[9]。
1730年(1729年)にはアブル=ハイル・ハンが率いるカザフ族の連合軍が、アルマトイ北西のアヌラカイ山で抗争を繰り返していたジュンガルを撃破する[15]。
1854年、シベリア・コサックが天山山脈のふもとに要塞を建設し、ザイリースキー(ザイリスコエ、Заилийский)と呼んだ。やがて、要塞はヴェールノエの名前で呼ばれるようになった[16]。ヴェールノエはビシュケク・タシュケント方面への遠征の拠点とされ[17]、1859年に初めて地図上に名前が記された[8]。
1867年に要塞はヴェールヌイ(Верный)市と改められてセミレチエ州の州都に定められる。ステップ上に位置する立地、当時の不安定な中央アジア情勢のため、ロシア帝国の統治下で秩序が保たれていたヴェールヌイには、多くの民族が移住した[18]。ヴェールヌイに移住した人間はボリショイ・アルマトゥ川沿いに、出身地域ごとに集落を形成した[8]。1880年代のアルマトイは、60年代にロシア人移民が居住する要塞周辺の旧地区、70年代以降に建設された新規の移民の居住地である新ヴェールヌイ区、カザフ族などの非ロシア人が居住する郊外の地区の3つに分かれていた[18]。1887年と1910年(1911年)の大地震(1911年ケビン地震(英語版))でヴェールヌイは壊滅するが、人々は町を再建した[19]。2度の大地震の後に、碁盤目状の市街地が整備され始める。 1918年3月にヴェールヌイにソビエト政権が樹立される[20]。 1921年2月5日、ヴェールヌイは地方政府の代表者、専門職の業界団体、地元の信仰に基づく団体の共同協議によって、街の古称のひとつで特産品のリンゴにちなんだ名前のアルマ・アタ(リンゴの父)に改称される[10][21]。1926年、労働・国防評議会は、カザフスタンの将来の成長、特に東部と南東部における重要な要素であったトルキスタン-シベリア鉄道の建設を承認した。この鉄道の建設はまた、カザフスタンの首都としてのアルマ・アタの運命に強く影響する決定的な経済的影響を与えた。 1927年4月29日、政府はカザフ自治ソビエト社会主義共和国の首都をクズロルダからアルマ・アタに移すことを決定し[22]、1929年に首都がクズロルダからこの地に移される。 1928年、政争に敗れたレフ・トロツキーが追放され、妻のナタリア・セドヴァと息子のレフ・セドフを伴って滞在した。トロツキーは1929年2月にアルマ・アタからトルコに追放され、メキシコ・シティに亡命した。 1930年、トルキスタン・シベリア鉄道とトルキスタン・シベリア道路
ソビエト連邦の時期
1936年、建築・計画局は、カザフスタンの新しい文化首都としてアルマ・アタを強化する計画を策定した。この計画は、既存の碁盤の目形の地区システムに基づいていた。地区は強化され、再建された。 第二次世界大戦中、アルマ・アタには戦火を逃れるために工場や病院、大学、映画撮影所などがヨーロッパ・ロシアから続々と疎開してきたことがアルマ・アタの人口と構造に劇的な影響を与えた。 ソビエト連邦政府はヨーロッパ戦域から2万6,000人の人口と多数の産業を疎開させた[24]。アルマアタは、ソビエト連邦のヨーロッパ地域から撤去された30以上の産業施設、8つの疎開病院、15の研究所、大学、技術学校、約20の文化施設を受け入れ、1941年から1945年にかけて、この都市の産業ポテンシャルは著しく向上した。 また、レニングラード、キエフ、モスクワにあった映画製作会社のモスフィルムとレンフィルムもこの時期にアルマアタに移され[25]、アルマ・アタに中央合同劇映画製作所が発足。当時のソビエト連邦製映画の約8割がアルマ・アタで制作された[26]。アルマ・アタで映画技法を学んだ人物の中から、中央アジアの映画界で活躍する人材が多く現れた[26]。 このため、非常に多くのロシア民族が流入し、カザフ人はこの地域で少数派となった。 戦後には第40収容地区(ラーゲリ)が設置され、シベリア抑留を受けた日本兵捕虜が収容された[27]。アルマトイ及び周辺で約6000人程度(資料により差がある)が[28]科学アカデミーや発電所の建設に使役された[6]。市内には日本兵捕虜が葬られた墓地が3か所存在する[6]。 戦後も開発が進んだ。市の人口は、1919年の104,000人から1968年には365,000人に増加した。1967年までに145の企業が進出し、その大半は軽工業と食品工業であった。 アルマ・アタの主な産業は、主に地元で豊富に採れる果物や野菜を原料とする食品加工(総産業生産高の36%)、軽工業(31%)、重工業(33%)であった。この地域の主な生産物は以下の通りである:
第二次世界大戦の時期
工業化の進展
食品:食品:食肉、小麦粉、穀類(パスタ工場)、牛乳、ワイン、缶詰の果物、タバコ、菓子、アルコール蒸留酒、ビール、酵母、茶(パッケージング)