アルマダ海戦
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「無敵艦隊」はこの項目へ転送されています。1937年公開のイギリス映画については「無敵艦隊 (1937年の映画)」をご覧ください。

アルマダの海戦
英西戦争

アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』(Defeat of the Spanish Armada)フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ画、1797年

1588年7月31日-8月8日(旧暦7月21日-7月29日)
場所英仏海峡プリマス沖ポートランド沖ワイト島沖、グラヴリンヌ沖 (en) 。
結果イングランド、オランダの勝利

衝突した勢力
イングランド王国
ネーデルラント連邦共和国

 スペイン
ポルトガル王国
指揮官
第2代ハワード男爵
フランシス・ドレーク メディナ=シドニア公
アレッサンドロ・ファルネーゼ
戦力
軍艦34隻[1]
武装商船163隻
(200トン以上30隻)[1]
快速船 (en) 30隻軍艦28隻
武装商船102隻
被害者数
アルマダの海戦:
戦死50?100人[2]
戦傷400人
火船8隻焼失[注釈 1]
戦病死:
数千人[3]アルマダの海戦:
戦死600人以上
戦傷800人[4]
捕虜397人
喪失9 - 11隻[5][6]
遭難と戦病死:
難破・行方不明54隻[5]
死者20,000人[7]

アルマダの海戦(アルマダのかいせん)、アルマダ戦争(アルマダせんそう、英語: Battle of Armada, Armada Wars)は、スペイン無敵艦隊(英語: Spanish Armada、スペイン語: Grande y Felicisima Armada)のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。

広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada Invencibleの訳で、スペイン海軍のC・F・ドゥロ大佐が1884年に著した論文[8]の題名が原典とされている[注釈 2]。イングランド側視点での歴史書では、“the Invincible Armada”の名称が揶揄的な表現として稀に用いられている[9]。本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(Grande y Felicisima Armada)と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶ[注釈 3]

なお、両国での暦が異なる[注釈 4]ため、記録上の日付も異なっている。日付はスペイン側のグレゴリオ暦とイングランド側の旧暦(ユリウス暦)を併記する。
概要

当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題やイングランドのネーデルラントへの介入によって悪化しており、また、イングランド私掠船によるスペイン船や入植地に対する海賊行為もスペイン王フェリペ2世が侵攻を決意した要因のひとつにあげられる。詳細は「英西戦争 (1585年)」を参照

1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月末から8月初め(旧暦7月)に行われた一連の海戦のあとのグラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。無敵艦隊はスコットランドアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を被ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻だった。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった[10]。ただし、この戦いのあとイングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした[11][12][13]
背景スペイン王フェリペ2世 1580年ごろ、ナショナル・ポートレート・ギャラリーロンドン

スペイン王フェリペ2世は、妻のイングランド女王メアリー1世1558年に死去するまでイングランドの共同王であった。敬虔なカトリックである彼は、プロテスタントである義妹エリザベス1世異端者であり、違法なイングランド統治者であるとみなしていた。フェリペはエリザベスを打倒して、カトリックであり、かつイングランド王位継承権者である前スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位につけようとする陰謀を支持していたが、メアリーを幽閉していたエリザベスが1587年に彼女を処刑したために阻止されてしまった[14]

また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われたため、フェリペはエリザベスに海賊行為を取り締まるよう申し入れたが、エリザベスは聞き入れるどころか海賊行為に加担していたことも、英西関係を悪化させていた[15]

加えて、プロテスタント信仰の拡大を策するエリザベスがスペインに敵対するオランダ人の反乱を支援して軍事介入し、1585年以降、両国は実質的な戦争状態になっていた。これらの報復のために、フェリペ2世はプロテスタント体制を打倒すべくイングランド侵攻を計画した。そしてこれによって、イングランドによるネーデルラント連邦共和国[注釈 5]への支援を終わらせ、新世界のスペイン交易路と入植地への攻撃[16]を断つことができる。フェリペ2世は教皇シクストゥス5世からの支持を受けており、教皇は侵攻を十字軍として扱い、スペイン軍が上陸した際の特別補助金を約束している[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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