アルベルト・シュペーア
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ドイツ国政治家アルベルト・シュペーアAlbert Speer
シュペーアの肖像写真 (1933年)
生年月日1905年3月19日
出生地 ドイツ帝国
バーデン大公国マンハイム
没年月日 (1981-09-01) 1981年9月1日(76歳没)
死没地 イギリス
イングランド
ロンドン
出身校カールスルーエ工科大学
ミュンヘン工科大学
ベルリン工科大学
所属政党 国民社会主義ドイツ労働者党
 【党員番号】
  474,481番
称号 黄金党員名誉章[注釈 1]
党全国指導部最高局長(1938年)
党発令官(1942年)
党上級発令官(1944年)
配偶者マルガレーテ
親族ヒルデ(長女)
サイン
ドイツ国
第19代 経済大臣(ドイツ語版)
内閣フォン・クロージク内閣
在任期間1945年5月2日 - 1945年5月23日
大統領カール・デーニッツ
ドイツ国
第4代 軍需大臣
内閣フォン・クロージク内閣
在任期間1945年5月2日 - 1945年5月23日
大統領カール・デーニッツ
ドイツ国
第2代 軍需大臣
内閣ヒトラー内閣
在任期間1942年2月7日 - 1945年4月30日
総統アドルフ・ヒトラー
ドイツ国
帝国首都建設総監(ドイツ語版)
内閣ヒトラー内閣
在任期間1937年1月30日 - 1945年4月30日
総統アドルフ・ヒトラー
国民社会主義ドイツ労働者党
副総統官房
党建設担当委員代表
在任期間1933年 - 1945年4月30日
党指導者アドルフ・ヒトラー
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アルベルト・シュペーア
Albert Speer
所属組織 国民社会主義航空軍団
軍歴1931年 - 1945年
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ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア(ドイツ語: Berthold Konrad Hermann Albert Speer、1905年3月19日 - 1981年9月1日)は、ナチス・ドイツ建築家政治家。アルバート・シュペーア、アルベルト・シュペールなどとも表記される。アドルフ・ヒトラーのお気に入りの建築家であり、国民社会主義ドイツ労働者党の主任建築家として、全国党大会会場などの設計を手がけた。
概要

1937年に首都建築総監となり、新首都計画のための権限を掌握した。1942年から軍需大臣を務め、第二次世界大戦におけるドイツ経済に大きな影響をもたらした。終戦後のニュルンベルク裁判では、有期刑の判決を受け、釈放後はナチス時代の証言者として広く知られた。しかし、没後の研究では、証言の信憑性に疑問が持たれている。
生涯
生い立ち

1905年3月19日正午にドイツ帝国領邦バーデン大公国の都市マンハイムに生まれる。父はアルベルト・フリードリヒ・シュペーア(ドイツ語版)。母はルイーゼ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ(Luise Mathilde Wilhelmine、旧姓ホメル(Hommel))。兄にヘルマン(Hermann)、弟にエルンスト(Ernst)がいる。父アルベルト・フリードリヒはマンハイムでも名の知れた裕福な建築家だった[1]。祖父ベルトルトもドルトムントで成功した建築家で、彼がシュペーア家に財をなした[1]。シュペーアが生まれた頃の一家は大変裕福であったので、第一次世界大戦で節約を迫られるまで自家用車を2台保有していた[2]。この自動車はシュペーアの少年時代の技術的夢想の中心であったという[3]。シュペーアはマンハイムの上級実科学校では数学で最優秀の成績をとった。そのため初めは数学者になることを夢みたという[4]。しかし父の反対に遭い、父や祖父と同じく建築家の道を歩むことになった[5]

地方の大学より中央の有名な大学で建築を学ぶ夢は1923年のハイパーインフレーションで断たれ、シュペーアはカールスルーエ工科大学に進学した[4]。1924年、インフレが安定化した頃、より格の高い大学であるミュンヘン工科大学に転学した[6]。1925年、彼はさらにベルリン工科大学に転学している[7]。彼はこの大学で、有名な建築家で機能主義者であったハインリヒ・テセノウ(ドイツ語版)の指導の下で学んだ[7]


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