アルベルト・コンタドール
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はコンタドール、第二姓(母方の)はベラスコです。

アルベルト・コンタドール
Alberto Contador


基本情報
本名アルベルト・コンタドール・ベラスコ
Alberto Contador Velasco
愛称El Pistolero(エル・ピストレロ)
Conta(コンタ)
生年月日 (1982-12-06) 1982年12月6日(41歳)
国籍 スペイン
身長176cm
体重62kg
選手情報
所属引退
分野ロードレース
役割選手
特徴オールラウンダー
プロ経歴
2003
2004?2006
2006
2007
2008-2010
2011-2012
2012.8.6-2013
2014-2016

2017オンセ・エロスキ
リバティセグロス・ウルト
アスタナ・ウルト
ディスカバリーチャンネル
チームアスタナ
サクソ・バンク - サンガード
サクソ - ティンコフ
ティンコフ - サクソ
ティンコフ
トレック・セガフレード
グランツール最高成績
ジロ・デ・イタリア総合優勝 (2008, 2015)
ツール・ド・フランス総合優勝 (2007, 2009)
ブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝 (2008, 2012, 2014)
合計7(伊2・仏2・西3)
主要レース勝利

ツール・ド・フランス 総合優勝(2007,2009)
新人賞(2007)
区間通算3勝

ジロ・デ・イタリア 総合優勝(2008,2015)

ブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝 (2008) (2012,2014)
複合賞(2008,2014)
区間通算6勝

UCI ワールドランキング 年間王者(2009)

ティレーノ?アドリアティコ総合優勝(2014)

パリ?ニース 総合優勝(2007,2010)

バスク一周総合優勝(2008,2009,2014,2016)

セトマナ・カタラナ 総合優勝(2005)

スペイン選手権ITT(2009)
最終更新日
2018年10月18日

アルベルト・コンタドール・ベラスコ(Alberto Contador Velasco, 1982年12月6日- )は、スペインマドリード生まれの元自転車競技ロードレース選手。2007年ツール・ド・フランス2008年ジロ・デ・イタリアおよびブエルタ・ア・エスパーニャで総合優勝し、史上5人目となるグランツール完全制覇達成者となった[1]
経歴
デビューまで

幼少期はサッカーや陸上に親しんでいたが、自転車競技をやっていた兄の影響を受け、自身も競技を始めるようになる。そして2002年にスペインのU-23個人タイムトライアルで優勝するなどの実績をあげて、2003年にオンセ・エロスキでプロデビュー。

同年のツール・ド・ポローニュでステージ優勝を飾りプロ初勝利を飾ったほか、ブエルタ・ア・カスティーリャ・レオンでも総合4位に入り、期待の若手選手としての評価を高めていった。
生命の危機と復活

しかし2004年5月12日、出場していたアストゥリアス一周の第1ステージで突然意識を失って落車。緊急輸送された病院で脳の海綿状血管奇形が原因と判明。緊急の開頭手術が行われた。一時は生死の境をさまよう重体に陥ったが、半年間の入院期間を経て退院。その復帰初戦となった2005年の1月に開催されたツアー・ダウンアンダーの第5ステージで優勝を果たして復調ぶりをアピールした他、同年3月が最後の開催となったセトマナ・カタラナ(カタロニア週間レース)では総合優勝を果たした。

その後、バスク一周では、優勝のダニーロ・ディルーカ、2位のダヴィデ・レベッリンイタリア勢に続く総合3位に入りポイント賞を獲得。ツール・ド・ロマンディでもステージ勝利をあげて総合4位に入った。さらに初出場となったツール・ド・フランスでは総合31位、マイヨ・ブラン(新人賞)争いでは3位に入り、活躍の場を一気に広げていった。
2006年シーズン

この年はツール・ド・ロマンディステージ1勝をあげて総合でも2位。ツール・ド・スイスでもステージ勝利を上げる活躍を見せたが、ツール・ド・フランス開催の迫る5月末に行われたドーピング摘発作戦オペラシオン・プエルトで所属チーム監督が逮捕され、スポンサーが撤退。一時はチーム解散の危機に会う。その後新たなスポンサーがつき出場のめどこそついたが、直後にUCIからドーピングの疑いがあるとしてコンタドールに出場停止処分が下される憂き目にあった(その後無罪となり停止処分は解除されている。また今回の騒動と発端となったスペイン人医師もコンタドールは知らないと語ったとされる)。

さらに追い討ちをかけるように、ブエルタ・ア・エスパーニャに向けた調整のために出場していたブルゴス一周の第4ステージ終了後、突然の失神。幸いすぐに意識を取り戻したものの、2年前の多孔性血管腫の後遺症と診断され、大事をとるためブエルタの出場はキャンセル。その後もレースに出ることのないままシーズンを終え、結局オペラシオン・プエルトのあおりでこの年いっぱいでチームも解散。新しい所属先を探すことになった。
2007年シーズン
シーズン序盤?新チームでの活躍?

2007年1月にディスカバリー・チャンネル プロ・サイクリングチームへ移籍。

パリ?ニースでは頂上ゴールが設定された第4ステージでステージ優勝を遂げたほか、最終ステージで総合首位だったダヴィデ・レベッリンを逆転して総合優勝を果たし、初のメジャータイトルを獲得。続くブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンでも総合優勝を果たした。
シーズン中盤?ツール・ド・フランス総合優勝?

この勝利が評価され、ツール・ド・フランスではリーダーゼッケンをつけるリーヴァイ・ライプハイマーに次ぐ2番手のポジションを与えられ、同年のジロ・デ・イタリアでエースを務めたヤロスラフ・ポポヴィッチをアシストに従えるという贅沢な布陣で挑むことになった。

2つの超級山岳パイエル峠(標高2001m、平均勾配7.2%、長さ16.8km)とプラトー・ド・ベイユ(標高1780m、平均勾配7.9%、長さ19.7km)を登る第14ステージ山頂ゴールにおいて、初のステージ優勝を果たして総合でも2位に浮上[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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