アルベルト・グラナード
Alberto Granado
2007年、ベネズエラ、メリダ(Merida)にて。
生誕 (1922-08-08) 1922年8月8日
アルゼンチン Hernando
死没2011年3月5日(2011-03-05)(88歳)
キューバ ハバナ
職業医師、作家、科学者
著名な実績若きチェ・ゲバラの南米旅行の同行者
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アルベルト・グラナード・ヒメネス(Alberto Granado Jimenez、1922年8月8日 - 2011年3月5日)は、アルゼンチン生まれで、おもにキューバで活躍した生化学者、医師、作家。チェ・ゲバラとは南米周遊旅行をともにした親友であり、キューバのサンチャゴ医学校(Escuela de Medicina de Santiago de Cuba)の創設者である。著書のひとつは『Con el Che por Sudamerica (トラベリング・ウィズ・ゲバラ)』である。この本は、2004年の映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』の制作においても参照されており、映画では主演のゲバラ役をガエル・ガルシア・ベルナル、グラナード役をロドリゴ・デ・ラ・セルナが演じた。年老いたグラナード本人も、映画のエンディングに短く登場する。
生い立ち)で、アルゼンチンの鉄道会社に聖職者として雇用されていたスペイン人の父ディオニシオ・T・グラナード(Dionisio T. Granado)と、母アデリーナ・ヒメネス・ロメーロ(Adelina Jimenez Romero)の間に生まれた。1930年、ホセ・フェリクス・ウリブルがイポリト・イリゴージェン率いる急進市民同盟政権を倒した後、父が労働組合の戦闘的な活動家であったことから、グラナード一家はサンタフェ州ビラ・コンスティテュシオン(Villa Constitucion)に転居を強いられた。1931年、グラナードは親元を離れてコルドバの祖父母の下に送られ、1940年にはコルドバ国立大学に入学し、化学と生化学を学んだ。
グラナードが初めてエルネスト・"チェ"・ゲバラ・デ・ラ・セルナに会ったのは、ゲバラ家がコルドバに移った後の、1945年のことであった。このときグラナードは、高校での生徒の蜂起に関わっていたとして警察に拘束されていた。グラナードの兄弟トマスが留置場へ面会に来たとき、一緒についてきたのがゲバラであった[1]。
1943年、グラナードは、フアン・ペロン将軍への政治的抗議活動に関わり、1年間投獄された。1947年から1951年にかけては、臨床研究室と、コルドバ州サン・フランシスコ・デル・チャニャール(San Francisco del Chanar)のハンセン病療養所で学んだ。ゲバラは、サン・フランシスコ・デル・チャニャールにいたグラナードを尋ねて行ったことがあった[1] 。グラナードは生化学で理学修士号を獲得し、ブエノスアイレスのマルブラン研究所( Instituto Bacteriologico "Carlos G. Malbran")で学ぶための奨学金を獲得した。
南米と欧州の旅詳細は「en:The Motorcycle Diaries (book)」および「en:The Motorcycle Diaries (film)」を参照1952年6月、アマゾン川で木製の筏「マンボ=タンゴ号」に乗るグラナード(左)とゲバラ(右)。この筏は、彼らが治療に当たったハンセン病の患者たちから贈られたものだった。グラナードがゲバラと同行した旅のルート。赤い矢印は飛行機による移動。グラナードがゲバラに同行したのはベネズエラまで。
1951年12月29日から1952年7月まで、グラナードは愛用していたノートン製の 500cc のオートバイ「ポデローサ2世 (Poderosa II)」に乗り、ゲバラと一緒に南米周遊の旅に出た。このとき2人はどちらも日記をつけていた。ふたりはペルーのロレート県イキトス近郊にあるサン・パブロのハンセン病療養所に滞在した。彼らは、無権利状態に置かれた先住民たちの貧困と、安価で基本的な医療さえ利用できない状況を目の当たりにした。この経験はふたりに、それぞれの将来の仕事を認識させた?ゲバラは革命的政治活動、グラナードは実用的な科学を目指すことになった。
グラナードの旅は、ベネズエラのカラカスで終わった。彼はこの地に留まり、マイケティーア(Maiquetia)のカーボ・ブランコ(Cabo Blanco)にあるハンセン病療養所で働くことになった。ゲバラは旅を続け、マイアミまで行き、それからブエノスアイレスに戻って、医学部の卒業を目指した。