アルプ・シュニットガー
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シュニットガーのサイン

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アルプ・シュニットガー(Arp Schnitger。1648年シュマーレンフレート生まれとされている。洗礼は1648年7月9日ゴルツヴァルデン(ともに現在のブラーケ)。埋葬は1719年7月28日ノイエンフェルデ(現在はハンブルクの市区))は、当時最も有名であったオルガン製作者の一人で、北ドイツにおけるバロックオルガンの代表的製作者の一人である。彼の活動範囲は北ヨーロッパに広がっており、100台を超える新オルガンを製作した。現在も約30台が、その基本部分が保存されている。
目次

1 生涯

1.1 誕生

1.2 素性

1.3 子供時代、成長期

1.4 手工芸的特性と活動範囲

1.5 結婚と子供たち

1.6 最期


2 人物像

3 作品

3.1 構造上・音響上の特徴

3.2 シュニットガー派

3.3 重要性


4 作品リスト

5 シュニットガーを記念するもの

6 参考文献

7 外部リンク

8 引用

生涯
誕生

シュニットガーの誕生について、詳細な状況は不明である。1648年7月2日生まれとする、シュニットガー研究者グスタフ・フォックの推論が広く知られている[1]。しかし、この説は典拠がなく確度は乏しい。彼の誕生に関する史料としてはゴルツヴァルデンの教会に遺された1648年7月9日という洗礼の日付がある[2]
素性

アルプ・シュニットガーは、祖先からシュマーレンフレート(ブラーケ)に住んだ有名な家具職人の一家に生まれた。ファミリーネームのシュニットガー (Schnitger) は先祖の職業を示している。アルプ・シュニットガーの祖父ベーレントは「Snitker」(現代ドイツ語の「Schnitzer」=「彫刻家」)で、家具職人を兼ねた。父親のアルプ・シュニットガー(父)(1610/15年 - 1680年)は家具製作のマイスターであったが、ゴルツヴァルデンのオルガン製作に携わったことが証明されている[3]。その妻については、カタリーナというファーストネームと没年(1674年)だけが知られている。彼らの結婚からは少なくとも5人の子供が誕生し、本項のアルプはおそらくその末子であったとされる[4]。1695年までに「Schnitker」または「Schnittker」と書いていた名前を、「Schnitger」に変更していた[5] シュターデの聖コスマス教会のオルガン
子供時代、成長期

シュニットガーの子供時代や成長期についてはわずかなことしか知られていない。彼は兄弟姉妹とともに育てられ、手仕事をおそらく父親から教わった(1662年 - 1666年)。その後彼は、エルベ川下流沿いのグリュックシュタットに住む縁者のベーレント・フスの下で、おそらく1666年から1671年までオルガン製造を学び、1673年に遍歴職人となったと考えられている。1673年のシュターデ聖コスマス教会オルガン完成がこの時代の総仕上げであった。シュニットガーにとって幸いだったのは、生涯の友人となるヴィンツェント・リューベックと知り合ったことであった。リューベックは1674年から1702年まで聖コスマス教会のオルガニストで、1702年から1740年まではハンブルク聖ニコライ教会にシュニットガーが製造した大オルガンのオルガニストを務めた人物である。1676年に師匠が亡くなった後、シュニットガーは29歳でシュターデ聖ヴィルハーディ教会のオルガン製造を完成させた。初めはフス未亡人の委託を受ける形で工事を行ったのだが、1677年に独立したマイスターとなった[6][7]
手工芸的特性と活動範囲 聖ヤーコプ教会のオルガン

シュニットガーの手工芸的および芸術的特性はたちまち評判となった。彼は初め近隣地域から注文を請けていたが、すぐにブレーメンハンブルクからも注文が来るようになった。シュニットガーは1677年から1682年までシュターデで仕事を行い、いくつかのオルガンを完成させたが、これはまだフス家から依頼されたものであった。その後、彼はハンブルクに移り、1682年9月1日に市民宣誓を行い、このハンザ都市の正式な市民となった[8]。最初の大きな注文は聖ニコライ教会の教会役員長からもたらされた。それは67ストップ、4つの鍵盤、ペダル鍵盤と4,000本以上のパイプを備えたオルガンの製造であった。このオルガンは、当時おそらく世界最大の楽器であり、シュニットガーの国際的名声を証明している。最大のパイプは860ポンドの重さがあった[9]。このオルガンは1842年のハンブルク大火によって焼失した。これに対して、同じくハンブルクの聖ヤーコプ教会には、1689年から1693年にアルプ・シュニットガーが改造・一部新設したオルガンは現存している。これは60ストップ、4つの鍵盤、ペダル鍵盤をもつ現存する最大のバロックオルガンの一つである。多くのオルガン製作者や作曲家がこのオルガンを見学に訪れている。その中にはディートリヒ・ブクステフーデ、1703年頃にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、1720年にヨハン・ゼバスティアン・バッハらの名前がある。

シュニットガーは北ドイツ全域から注文を承けるようになった。さらには、イングランド(1690年)、ロシア(1691年にピョートル1世から、および1697年)、スペイン(1702年以後)、ポルトガル(1701年)まで彼の活動範囲は拡大し、オルガンは輸出されていった[10]1699年にシュニットガーは、オルデンブルクおよびデルメンホルスト伯領、ブレーメンおよびフェルデン公領のオルガン製造に関する特権を得、1702年にはシュレースヴィヒ公領およびホルシュタイン公領においても同様の特権を得た。さらに1708年にはプロイセン王のオルガン製造者に指名された[6][11][12]
結婚と子供たち シュニットガーの紋章(左)とその妻の紋章(右)。シュニットガーの紋章にはオルガン製作者のシンボルであるコンパスが描かれ、紋章の上には十字に組み合わされたパイプを切る工具を戴いている。


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