アルブレヒト1世
Albrecht I.
ザクセン公
在位1212年 - 1260年
出生1175年頃
死去1260年10月7日
神聖ローマ帝国
ブランデンブルク辺境伯領、クロスター・レーニン
ザクセン公アルブレヒト1世(Albrecht I., Herzog von Sachsen、1175年頃 - 1260年10月7日)は、アルベルト1世とも呼ばれるアスカーニエン家出身の人物で、ザクセン、エンゲルン、ヴェストファーレンの公、ノルトアルビンゲンの領主、神聖ローマ帝国の選帝侯および大元帥、アンハルト伯を務めた。ザクセン公ベルンハルト3世とデンマーク王クヌーズ5世の娘ブリジットの子で、アルブレヒト熊公の孫にあたる。アンハルト伯ハインリヒ1世は兄である。 父ベルンハルト3世の死後、1212年にアルブレヒト1世はザクセン公領を継承し、ザクセン系アスカニア家の始祖となった。ザクセン系アスカニア家は1260年にザクセン=ラウエンブルク系とザクセン=ヴィッテンベルク系に分裂する。兄ハインリヒ1世はアスカニア家の家領を継承しアンハルト伯となった。 アルブレヒト1世は、ホーエンシュタウフェン家と対立するオットー4世を支持し、ホーエンシュタウフェン家を支持するマグデブルク大司教アルブレヒトと対立した。アルブレヒト1世はシュタースフルトをマグデブルク大司教アルブレヒトに奪われていた。1217年、最終的にアルブレヒト1世はオットー4世およびブランデンブルク辺境伯アルブレヒト2世
生涯
1215年7月25日にアーヘンで行われた戴冠式で、後の皇帝フリードリヒ2世は十字軍を行うことを誓ったが、ドイツ国内の紛争によりフリードリヒは十字軍に参加できずにいた。しかし、1217年にフリードリヒ2世は軍備を整えアルブレヒト1世の指揮下に置いた。アルブレヒト1世は地中海のダミエッタ要塞を占領した(第5回十字軍)。これをパレスティナの再征服の足掛かりとしたかったが、実際にはそれは実現しなかった。
1218年、フリードリヒ2世はアルブレヒト1世の持つ領地、権利及びフォークトを追認した。1219年、アルブレヒトは十字軍においてリヴォニアに移動した。その目的は、ラトビア人がロシアと同盟を結ぶのを妨げるためであった。この戦いにおいて、アルブレヒトは有能な軍人であることを示した。
1221年、マグデブルク大司教アルブレヒトは皇帝に会いにイタリアに向かった際、アルブレヒト1世は未成年の親族ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世およびオットー3世に対し優位な立場を手に入れた。しかしこれはヨハンおよびオットーの後見人であった兄ハインリヒ1世と不和となった。アルブレヒトはフリードリヒ2世とともに度々イタリアを訪れ、1226年にはアルビンゲン公位を与えられた。この新しい地位を与えられたアルブレヒトはシャウエンブルクの対デンマークの戦いに巻き込まれた。1227年7月22日のボルンヘーフェトの戦いでは、ハンブルク司教およびブレーメン大司教ゲープハルトとともに、ホルシュタイン伯アドルフ4世側として戦いに参加した。アスカニア家のヴァイマル=オーラミュンデ伯家はデンマーク側について戦った。結果として、デンマークの強大な勢力は崩壊し、アルブレヒト1世はメルンの町を含めたラウエンブルクの地を手に入れた。これまでアルブレヒトはエルベ川下流域のハーデルン伯自治領の支配権を持っているのみであったが、ワグリア(オストホルシュタイン)、リューベック、シュヴェーリンおよびダンネンベルクをザクセンの支配下におさめた。また、ヴェルフ家からもヒッツアッカー、ベルゲドルフおよびザクセンヴァルトを手に入れた。しかし、これらの領地は1231年のヴォルムス帝国会議においてはじめてフリードリヒ2世に承認された。
1227年から1231年にかけてアルブレヒトはマイセン辺境伯領の摂政となり、1228/9年にフリードリヒ2世に従ってエルサレムに向かった。