アルブレヒト・ペンク
Albrecht Penck
生誕1858年9月25日
ザクセン王国、ロイドニッツ
死没 (1945-03-07) 1945年3月7日(86歳没)
ドイツ国
ベーメン・メーレン保護領、プラハ
国籍 ドイツ国
研究分野地理学・地質学
研究機関ウィーン大学、ベルリン大学
出身校ライプツィヒ大学、ミュンヘン大学
指導教員ヘルマン・コルベ、フェルディナント・ツィルケル
主な指導学生アルフレート・メルツ
主な業績地形学・気候学
影響を
与えた人物山崎直方
プロジェクト:人物伝
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アルブレヒト・ペンク(Albrecht Penck、1858年9月25日 - 1945年3月7日)は、ドイツの地理学者および地質学者。ヴァルター・ペンク(Walther Penck)の父である。陸半球・水半球の名付け親である[1]。
ペンクは地形学と気候学の研究に専念し、ウィーン大学の自然地理学科の国際的な評判を高めた。地形学に関しては、アメリカの地理学者ウィリアム・モーリス・ディヴィスによる「地形は幼年期、壮年期、老年期、準平原という一連の流れで変化する」という地形輪廻(侵食輪廻)説に対して懐疑的だったとされる[2]が、ベルリン大学にディヴィスを招いて講義をさせている[3]。一方で地誌学や人文地理学の論文・著述も発表している[4]。特に、ヨーロッパにおけるドイツの文化の広がりに関する研究やフリードリヒ・ラッツェルの提唱した「生活圏」(ドイツ語: Lebensraum)の概念の洗練が知られる[5]。
画家・彫刻家のラルフ・ヴィンクラーは、1966年にペンクを偲び、A.R.ペンク(A. R. Penck
)を筆名に採用した。ペンクの名前にちなんだ月の表の山がペンク山となる。 1885年、ウィーン大学に呼ばれて教授となり、自然地理学と歴史地理学を担当することになった[8]。ウィーン大学の教授職の枠は当初、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンに提示されたものだったが、リヒトホーフェンが招聘(しょうへい)を断ったためペンクが着任することになったという[9]。同時期に私生活では1886年にバイエルン州の作家ルートヴィヒ・ガングホーファー(Ludwig Ganghofer
生涯
幼少から学生時代)に生まれ、両親に伴われブレーメンへ移った[6]。父が地理に関心を持つ商人であったことと、ブレーメンで遠洋を行く汽船を見たことによりペンクは外国のことを学びたいと思うようになった[6]。1875年に16歳にしてライプツィヒ大学に入学、ヘルマン・コルベやフェルディナント・ツィルケルらから自然科学の基礎を学んだ[6]。在学中にはザクセンに派遣され、地質調査を行い、その報告書はペンクが初めて発表した出版物となった[6]。この報告書の執筆背景には北ドイツの漂礫土が漂流する氷山によるとする「漂流説」と氷河によるとする「氷河作用説」の対立があった[7]。1880年にはミュンヘン大学へ移り、1882年に発表した(PENCK(1882))はミュンヘン大学賞を受賞した[6]。この研究は氷期研究の新時代を開拓するものであった[7]。1883年から1885年にかけてペンクはスコットランド、ピレネー山脈、ドイツ国内を旅して多数の論文を発表し、自身の研究の方向性として、氷期と地形学の研究を見出した[6]。
教授時代
ウィーン
ウィーン時代のペンクは学問的業績の最高潮で、野外巡検の重視と魅力的な講義や論文で学生を引き付け、アルフレート・メルツら多数の学生を指導した[10]。この頃に執筆した『地表の形態学』と『氷期のアルプス山脈』はペンクの代表作となった[11]。また、この時に書いたドイツ地誌は「なぜこの事象が発生したか」という原因の解明を中心に記述し、それまでの博物学的な寄せ集めの地誌とは一線を画した[12]。地図学でも貢献し、1891年にはスイス・ベルンで開かれた第5回国際地理学会議の場で統一された規格の世界地図(100万分の1万国図)の作成を提案した[13]。この提案は1909年の万国図国際会議での万国図作成の議定書策定につながった[14]。1905年にペンクはスウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。