アルブレヒト・フォン・ローン
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アルブレヒト・フォン・ローンAlbrecht von Roon

生年月日1803年4月30日
出生地 プロイセン王国
ポンメルン県・コルベルク
没年月日 (1879-02-23) 1879年2月23日(75歳没)
死没地 ドイツ帝国
プロイセン王国ベルリン
出身校プロイセン陸軍大学
所属政党無所属
称号伯爵(Graf)
プロイセン王国
第19代首相
内閣フォン・ローン内閣
在任期間1873年1月1日 - 1873年11月9日[1]
国王ヴィルヘルム1世
ドイツ帝国
初代陸軍長官
内閣ビスマルク内閣
フォン・ローン内閣
在任期間1871年1月18日 - 1873年11月9日[1]
皇帝ヴィルヘルム1世
プロイセン王国
第20代陸軍大臣
内閣カール・アントン内閣
ホーエンローエ=インゲルフィンゲン内閣
ビスマルク内閣
フォン・ローン内閣
在任期間1859年12月5日 - 1873年11月9日[2]
国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
ヴィルヘルム1世
プロイセン王国
海軍大臣
内閣カール・アントン内閣
ホーエンローエ=インゲルフィンゲン内閣
ビスマルク内閣
フォン・ローン内閣
在任期間1861年 - 1871年[3]
国王ヴィルヘルム1世
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アルブレヒト・フォン・ローン
Albrecht von Roon
所属組織 プロイセン陸軍
ドイツ帝国陸軍
軍歴1821年 ? 1879年
最終階級 陸軍元帥
除隊後政治家
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アルブレヒト・テオドール・エミール・フォン・ローン伯爵(Albrecht Theodor Emil Graf von Roon, 1803年4月30日 - 1879年2月23日)は、プロイセン及びドイツ貴族軍人政治家ドイツ統一時代に活躍したプロイセンの陸軍大臣。爵位は伯爵で最終階級は陸軍元帥

プロイセン陸軍大臣(ドイツ語版)(在職1859年-1873年)として国王ヴィルヘルム1世の軍制改革を任せられていた。オットー・フォン・ビスマルクを宰相に据え、軍制改革を断行してドイツ統一に関わる3つの戦争の勝利に貢献した。1873年には一時的にプロイセン首相も務めた。軍人としての最終階級は1873年1月元帥
概要

プロイセン王国東部の土地貴族(ユンカー)の出身。陸軍幼年士官学校を出て、1821年にプロイセン陸軍に入隊。陸軍大学を経て1836年に参謀本部に配属され、参謀将校としてキャリアを積んだ。1848年革命バーデン大公国での反乱の鎮圧に従軍した際、鎮圧軍総司令官の皇太弟ヴィルヘルム王子(1861年にプロイセン王に即位してヴィルヘルム1世となる)の目にとまって彼の側近となった(→前半生)。

ヴィルヘルム王子より軍制改革案の立案を任せられ、自由主義民主主義ナショナリズム的な要素が強いラントヴェーアを後備軍にして弱体化させつつ、正規軍の現役兵役3年制を維持し、徴兵数を増加させる内容の軍制改革案を作成した(→軍制改革)。

ヴィルヘルム王子が摂政となった後の1859年に陸軍大臣(ドイツ語版)に任じられる(→陸軍大臣就任)。軍制改革予算案を承認させるべく衆議院と折衝を図ったが、自由主義者が多数派を占める衆議院は拒否した。衆議院に対する軍事クーデタを主張するエドヴィン・フォン・マントイフェル軍事内局局長に反対し、憲法体制を破壊せずに軍制改革を断行する道を模索した(→衆議院との折衝衆議院との関係が緊迫)。

小ドイツ主義統一を掲げて自由主義者の懐柔を図りつつ、自由主義者の協力が得られない時には強引な憲法解釈(隙間説)で無予算統治を行う覚悟のあるオットー・フォン・ビスマルクを支持し、1862年、国王ヴィルヘルム1世に彼を宰相に任命させた。ビスマルクの無予算統治によってローンは軍制改革を断行することが可能となった(→ビスマルクを宰相に据える)。

1864年の対デンマーク戦ではビスマルクとともにデュッペル要塞攻撃を支持し、参謀総長モルトケと対立した。またデンマーク戦後には親墺派のマントイフェル軍事内局局長を左遷に追いやった(→対デンマーク戦争とマントイフェルとの対立)。1866年の普墺戦争や1870年の普仏戦争でもしばしば軍事上の問題でモルトケと対立した(→普墺戦争と普仏戦争)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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