アルフレート・ローゼンベルク
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ドイツ国政治家アルフレート・ローゼンベルクAlfred Rosenberg

生年月日1893年1月12日
出生地 ロシア帝国 レヴァル(現: エストニア タリン
没年月日 (1946-10-16) 1946年10月16日(53歳没)
死没地 連合国軍占領下のドイツ
バイエルン州 ニュルンベルク
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
称号ドイツ芸術科学国家賞
サイン
ドイツ国
東部占領地域大臣
内閣ヒトラー内閣
在任期間1941年7月17日 - 1945年5月8日
総統アドルフ・ヒトラー
国民社会主義ドイツ労働者党
対外政策全国指導者
在任期間1933年6月2日 - 1945年5月8日
ドイツ国国会議員
当選回数7回
在任期間1930年 - 1945年
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1942からの東部占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルクのオフィスノルウェー首相クヴィスリング(左)と(ベルリン1942年)

アルフレート・エルンスト・ローゼンベルク(ドイツ語: Alfred Ernst Rosenberg, 1893年1月12日 - 1946年10月16日)は、ドイツ政治家思想家国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)対外政策全国指導者(ドイツ語版)。第二次世界大戦期には東部占領地域大臣も務めた。戦後ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け、処刑された。
生涯

1893年ロシア帝国エストニアのレヴァル(現タリン)に、ドイツ系商館の支配人を務めていたバルト・ドイツ人の子として生まれた[1]。ローゼンベルク姓はユダヤ人に多い姓だが、バルトでは非ユダヤ人にも一般的な姓だった[2][注 1]

母はローゼンベルクが生後2か月の時に、結核で無くなり、父親は11歳の時に亡くなる[3]。そのためサンクトペテルブルクにあった叔母の家に預けられて育った[3]。当初はプロテスタントとして育てられるも、信仰に反発する[3]。彼はレヴァルの実科学校で、ドイツ人教師と出会い、ドイツの古い文化や地理、北欧神話インド哲学への興味を持つようになった[1]。中でも17歳の時に読んだヒューストン・ステュアート・チェンバレンの著書『十九世紀の基礎』は、彼が反ユダヤ主義ゲルマン民族至上主義に傾倒するきっかけとなった[4]。その後、建築家になるべく、リガ工科大学に進んだ[3]。リガ工科大学在学中より古代インドアーリア人神話や神秘主義哲学に傾倒[3]ラスプーチングルジエフの影響を受けたロシア神秘主義サークルに参加したオカルティストでもあった。

第一次世界大戦によるドイツ軍の侵攻によってローゼンベルクはモスクワに移り、モスクワ高級工科学校(現在のバウマン記念モスクワ国立工科大学)に入学した。しかしまもなくロシア革命が発生し、ローゼンベルクは革命の進展を目の当たりにした[5]。彼は革命期のアナキズムに強い嫌悪感を持ち、また共産主義革命を「ユダヤ人の陰謀」ととらえ、これらに強く反感を持つようになった[6][7]1915年にはヒルダ・リースマン(Hilda Leesmann)と結婚した[8]1918年には建築学の資格を取得し、レヴァルに進軍してきたドイツ軍に入隊を志願したが認められなかった。その後締結されたボリシェヴィキ政府とドイツの休戦協定に衝撃を受け、11月には「祖国を得るため我が家を棄て」ベルリンに向けて旅立った[9]。この頃には、ローゼンベルクとヒルダの結婚生活は事実上の破局を迎える[10]
初期のナチ党幹部

しかし、ベルリンは当時戦争敗北のため混乱の極みにあった。1919年初頭、ローゼンベルクは職を得るためミュンヘンに移ったが、亡命者救済委員会の世話になって暮らした[11]。ある日、路上で妻ヒルダの友人と出会い、政治運動家で詩人のディートリヒ・エッカートと出会うよう勧められた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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