初代ノースクリフ子爵アルフレッド・チャールズ・ウィリアム・ハームズワース(Alfred Charles William Harmsworth, 1st Viscount Northcliffe、1865年7月15日 - 1922年8月14日)は、イギリスの実業家・ジャーナリスト。アソシエイテッド・ニュースペーパーズ(英語版)の前身となる巨大新聞グループを創設し、「新聞王」と言われた。
略歴で弁護士の子として生まれた。兄弟には弟でミラーグループの共同経営者であったハロルド(初代ロザミア子爵)、外務次官などをつとめたセシル(初代ハームズワース男爵)、レスター(英語版)(初代準男爵)、ヒルデブラント(初代準男爵)などがいる。
リンカンシャーのスタンフォード校(英語版)を出た後、フリーランスのジャーナリストとして活動していたが、1894年に『ジ・イヴニング・ニューズ(英語版)』を買収し、再建に成功した。その後各地の新聞を買収して会社を拡大し、1896年5月にイギリス最初のタブロイド紙『デイリー・メール』を創刊した。彼の経営手腕は他社の優秀な記者や通信員を高額で引き抜き、「ニュースを得よ、真っ先に得よ」という督励を行って大衆に受けるジャーナリズムを追求した。さらにエディンバラやグラスゴーといった遠隔地でもロンドンと同じ朝刊が見られるよう販売網を整備し、地方の読者も獲得した[1]。また大西洋横断飛行に多額の賞金をかけたり、タイタニック号沈没事故遺族への寄付金募集といったキャンペーンも行った。1897年には弟ハロルドとの共同出資という形で、会社を株式会社ハームズワース・ブラザーズに改組した[2]。この会社は新聞社だけでなく、製紙工場、インク工場の経営も行っている。1921年の訪日の際の、奈良でのハームズワース
第二次ボーア戦争の際にはラドヤード・キップリングらも参加した寡婦や戦争孤児のための大規模な慈善キャンペーンを行った。1903年には『デイリー・ミラー』を創刊し、『ザ・タイムズ』と『オブザーバー』を買収した。1904年にはエルムウッドの準男爵となり、1905年にはセントペーター(ケント州サネット)のノースクリフ男爵に叙せられている。1918年にはアメリカにおいてイギリスの戦争広報をつとめた功績により、セントペーターのノースクリフ子爵となった[3]。1921年には日本や朝鮮、中国を歴訪している。
1922年にカールトン・ハウス・テラスにて心内膜炎のために没した。彼には子供がいなかったため、爵位は一代限りとなった。新聞事業は弟ハロルドが継承した。[4][5][6] 第一次世界大戦、ノースクリフの新聞は激しく戦争熱をあおり立てた。「一方の手を『タイムズ』という厳粛な威信で武装し、今一方の手では『デイリー・ミラー』という普遍性を持って武装した」[7]彼は、戦時世論において支配的な権力をふるうことを望んだ[8]。 1915年3月、ヌーヴ・シャペルの戦い
第一次世界大戦
終戦が明らかになると、ノースクリフは政治への野心を顕わにし、パリ講和会議にイギリス代表として参加する希望を公言していた[13]。この希望をロイド・ジョージが拒絶したため、ノースクリフはロイド・ジョージに対する批判を開始した。そのキャンペーンは、ドイツに莫大な賠償を求めるなど対独強硬論を中心としたものであり、時として論理一貫性を欠く攻撃のための攻撃に陥った[14]。
脚注^ 鈴木雄雅 1990, pp. 326?327.
^ 鈴木雄雅 1990, pp. 432.
^ .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}"No. 30533". The London Gazette (英語). 19 February 1918. p. 2212. 2007年11月15日閲覧。