アルフレッド・シスレー
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アルフレッド・シスレー
ルノワールによるアルフレッド・シスレーの肖像。1864年。
誕生日 (1839-10-30) 1839年10月30日
出生地 フランス王国 パリ
死没年1899年1月29日(1899-01-29)(59歳)
死没地 フランス共和国 セーヌ=エ=マルヌ県モレ=シュル=ロワン(英語版)
国籍 イギリス
運動・動向印象派
芸術分野絵画(油彩画)
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アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839年10月30日 - 1899年1月29日)は、フランス生まれのイギリス人の画家
略歴洪水と小舟 1876 オルセー美術館

シスレーは1839年10月30日、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。

1857年、18歳のときにロンドンに移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、商業よりも美術に関心を持ちターナーコンスタンブル等の作品に触れた。4年後中断してパリに戻り、フレデリック・バジールのすすめでマルク=シャルル=ガブリエル・グレールのアトリエで学び、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会う。彼らは共に、スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはあまりなかった。彼らの作品は当時のサロンの審査員からは受け入れられなかった。1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場あった。当時はとくにルノワールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品している。

1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年、マリー・レクーゼクとしても知られる)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。[1]当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まるカフェ・ゲルボワの常連ともなっていた。

1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。

1870年普仏戦争が勃発し、ブージヴァルに住んでいたシスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産、経済的必要を満たすために作品を売るしかなくなる。しかしシスレーの作品はなかなか売れず、以後彼は死ぬまで困窮した中で生活することになる。[2] 1871年パリ・コミューンを避けルーヴシエンヌにほど近いヴォワザンへ移住。その後、アルジャントゥイユブージヴァル、ポール=マルリにも移住。

経済的困難もあったが、後援者の助けもあり何度かイギリスに短い旅をしている。最初の機会は1874年で、第一回印象派展の後に熱心な収集家で著名なオペラ歌手であったジャン=バティスト・フォールの招きによりイギリスに滞在(7?10月)している。シスレーはロンドン滞在中、テムズ川上流のモレジーで20近くの作品を制作した。

1875年にはモネ、ルノワール、ベルト・モリゾとともに水彩画、油彩画の即売会を開催する。

1880年代に、パリの東南方、セーヌ川の支流のひとつであるロワン川沿いに活動の拠点を移した。

1881年には再びイギリスを訪れている。

1889年にはモレ=シュル=ロワンに移住。1893年よりモレ=シュル=ロワンのノートルダム教会を連作で14点描いた。

1897年にはパートナーのウジェニーと共に再びイギリスを訪れ、8月5日にはカーディフで婚姻届を提出した。[3] 二人はカーディフ近郊のペナースに滞在し、シスレーは少なくとも6枚の油彩画を制作した。8月中旬にはガウワー半島のLangland Bayのホテルに移り、少なくとも11枚の油彩画を制作した。10月にフランスに戻っており、この旅が祖国を訪れた最後になった。カーディフ国立美術館にはこの時の作品が所蔵されている。

その後、シスレーはフランスの市民権を得ようと申請するが、却下された。2度目の申請時には病気が原因で却下されたという。[4]

シスレーは1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにて喉頭癌のため死去した。妻が癌で亡くなった数か月後のことで、二人はモレ=シュル=ロワンの墓地に埋葬された。
典型的な印象主義者

シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、パリ周辺の風景を題材にした穏やかな風景画で、人物、室内画、静物といった他のジャンルは全て合わせてもおそらく20点に満たない[5]。他の印象派の画家の多くが、後に印象派の技法を離れたなかで、シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続け、もっとも典型的な印象派の画家といえる。1900年頃、アンリ・マティスカミーユ・ピサロに会った際、マティスが「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねると、ピサロは「シスレーだ」と答えたという。
代表作

ルヴシエンヌの雪(
オルセー美術館)1875年

ポール・マルリーの洪水(フィッツウィリアム美術館)1876年

モレのロワンの運河(オルセー美術館)1892年

春の太陽、ロワン川(個人蔵)1892年

モレの教会堂(プティ・パレ美術館)1894年

日本にあるシスレー作品

タイトルレゾネ番号制作年技法・素材サイズ所蔵先備考
森へ行く女たち41866年油彩・カンヴァス65.2x92.2cm
アーティゾン美術館
マントからショワジ=ル=ロワへの道201872年油彩・カンヴァス46.0x56.0cm公益財団法人吉野石膏美術振興財団(山形美術館寄託[6][7]
ルーヴシエンヌの一隅541872年油彩・カンヴァス45.9x39.8cm三菱一号館美術館寄託
洪水241872年油彩・カンヴァス51.0x73.6cm個人〈日本〉
ルーヴシエンヌの風景911873年油彩・カンヴァス54.0x73.0cm国立西洋美術館
マルリーの水飼い場691873年油彩・カンヴァス98.1x130.5cmポーラ美術館
ブージヴァルのセーヌ川1873年頃油彩・カンヴァス京都国立近代美術館寄託
牧草の牛、ルーヴシエンヌ1301874年油彩・カンヴァス60.0x73.0cm富士美術館
塔1875年頃油彩・カンヴァス38.0x25.8cm姫路市立美術館(國富奎三コレクション)
舟遊び2771877年油彩・カンヴァス45.6x56.0cm島根県立美術館
セーヴルの跨線橋1879年油彩・カンヴァス37.9x55.5cmポーラ美術館
サン・クルー近くのセーヌ川、増水3431879年油彩・カンヴァス38.4x55.3cm上原近代美術館
マルリーの通り1879年油彩・カンヴァス38.0x55.2cm大原美術館
シュレーヌのセーヌ河3141879年油彩・カンヴァス50.0x65.0cmイセ文化基金
セーヴル磁器工場3071879年油彩・カンヴァス60.0x73.4cmマスプロ美術館旧蔵[8]
セーブルの坂道1879年油彩・カンヴァス46.4x61.2cm個人(旧蔵)
ヒースの原4041880年油彩・カンヴァス50.0x65.0cm個人
秋風景1880年油彩・カンヴァス50.0x65.0cm公益財団法人上原美術館 上原近代美術館
村への道1880年油彩・カンヴァス京都国立近代美術館寄託
ヴヌー・ナドンの冬4451881年油彩・カンヴァス52.5x71.0cm村内美術館旧蔵
サン=マメスのロワン河畔の風景1881年油彩・カンヴァス34.2x48.5cm鹿児島市立美術館


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