アルフォンソ1世
Alfonso I
アラゴン国王
ナバラ国王
在位1104年 - 1134年
出生1073年/1074年
死去1134年9月8日
アラゴン王国、ポレニーノ
埋葬 アラゴン王国、ウエスカ、サン・ペドロ・エル・ビエホ修道院
配偶者カスティーリャ女王ウラカ
家名ヒメノ家
王朝ヒメノ朝
父親サンチョ1世
母親フェリシー・ド・ルシー
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アルフォンソ1世(Alfonso I, 1073年/1074年 - 1134年9月8日)は、アラゴン王およびナバラ王(在位:1104年 - 1134年)。サンチョ・ラミレスの次男。ペドロ1世の異母弟、ラミロ2世の同母兄。レコンキスタを積極的に行い、29の戦いに勝利したことから、武人王(戦士王、el Batallador)といわれる[1]。 1104年に死去した兄に男子がなかったため、アラゴン・ナバラ王位を継承した。 アルフォンソ1世はエブロ川進出を図りサラゴサとレリダ攻略を目標に設定、1107年にレリダ近郊を攻撃、ベルチテ、モレーリャ
生涯
一方、1109年にカスティーリャ王アルフォンソ6世の娘で女王に即位した又従妹ウラカと結婚したが、この結婚にはカスティーリャ貴族の反対が多く、2人の仲も悪く内乱のきっかけとなったため、1111年に離婚した[5]。2人の間に子供はなかった。1113年からカスティーリャに戦争を仕掛け、1114年にアラゴンへ帰還してからもカスティーリャへの敵対行動を続け、サアグンの反乱を扇動したり、サラゴサ陥落から翌年の1119年にカラオラ・タラソナ・トゥデラ・エピラ・ボルハなどカスティーリャ東部の街を占拠し、西と南に拡張したアラゴンの威信を大いに高めた[6]。
さらに、権威が揺らいだムラービト朝の足元を見透かしてモサラベ(イスラム教国に住むキリスト教徒)がアルフォンソ1世に内通し蜂起を約束、1125年9月にアルフォンソ1世はこれに応えてアンダルシアまで長距離遠征を敢行、バレンシア、ムルシアなどを略奪して通過、1126年1月にグラナダに達した。モサラベの蜂起は起こらなかったが、アルフォンソ1世は1万人のモサラベを連れて帰りエブロ川流域に定住させた。残ったモサラベはムラービト朝に迫害されたが、この遠征でアリーの威信は失墜、反対にアルフォンソ1世の名声は増した[2][3][7]。
征服活動の傍らで都市政策、ムデハル(キリスト教領地に住むイスラム教徒)への対応にも目を向け、サラゴサなどアラゴンが占領した都市に留まるムデハルには生活・財産を保障して退去も残留も自由とし、引き続き住むムデハルには市外という条件付きながら居住を許し、キリスト教徒と差別しない寛大な処置を取った。