アルフォンス・ド・ブリエンヌ
Alphonse de Brienne
ウー伯
在位1250年ごろ - 1270年
出生1227年ごろ
エルサレム王国、アッコ
死去1270年8月25日
ハフス朝、チュニス
埋葬 フランス王国、サン・ドニ修道院
配偶者ウー女伯マリー・デクソダン
子女ジャン2世
イザベル
マルグリット
ブランシュ
家名ブリエンヌ家
父親エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ
母親ベレンゲラ・デ・レオン
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アルフォンス・ド・ブリエンヌ(Alphonse de Brienne, 1227年ごろ - 1270年8月25日)は、フランス貴族でフランス侍従長(grand chambrier de France)をつとめた。リュジニャン家出身のウー女伯マリー・デクソダンとの結婚により、ウー伯となった。 アルフォンスはエルサレム王・ラテン皇帝ジャン・ド・ブリエンヌとその3番目の妃でレオン王アルフォンソ9世とカスティーリャ女王ベレンゲラ(ブランシュ・ド・カスティーユの姉)の娘ベレンゲラ・デ・レオンの間の長男、第三子として生まれた[1][2]。 アルフォンスの異母姉にはエルサレム女王イザベル2世がいる。また、同母姉に1234年にラテン皇帝ボードゥアン2世と結婚したマリー、同母弟にボーモン子爵ルイおよびフランスの大執事をつとめたジャンがいる[1][3]。 母方の祖母を通じて、アルフォンスはプランタジネット家の血を引いている。また、フランス王ルイ9世およびアルフォンス・ド・ポワティエのはとこにあたる。 アルフォンスは弟のルイおよびジャンと共に、コンスタンティノープルで若年時代を過ごしたが、1236年にルイ9世に預けられ、成人後はルイ9世の側に仕えた[4]。 1256年10月、妻マリー・デクソダンはアルフォンスにシゼ城主の位を遺贈し、マリーの上級領主であるアルフォンス・ド・ポワティエに夫を迎え入れてもらうよう頼んだ[注釈 1]。 1260年に妻と死別し、息子のジャンが未成年であったためアルフォンスはウー伯領の摂政となった。同年、フランス王ルイ9世は彼をフランス侍従長に任命した。 1265年、アルフォンスはアフリカのムーア人との戦いで従兄弟のカスティーリャ王アルフォンソ10世を支援した。アルフォンスは勇敢に戦い大成功を収め、教皇クレメンス4世から祝意のメッセージを受け取った[6]。 アルフォンスは第8回十字軍の際、フランス王ルイ9世に同行した。王と同様に、アルフォンスも赤痢にかかり、王と同じ日の1270年8月25日にチュニスで亡くなった。 アルフォンスの遺体はフランスに運ばれ、サン・ドニ修道院にルイ9世と並んで埋葬された。 アルフォンスは1250年頃に、リュジニャン家のウー伯・エクソダン領主ラウル2世(1207年頃 - 1246年)とその2番目の妻ヨランド・ド・ドルー(1216年 - 1239年)の娘で唯一の相続人マリー・デクソダン(1232年頃 - 1260年頃)と結婚した。 この政略結婚は、マリーの祖母であるウー女伯アリックスとブランシュ・ド・カスティーユとの間の合意により決められた[注釈 2]。 夫妻の間には4子が生まれた[2]。
生涯
家族
生い立ち
政治的活動
十字軍と死
結婚と子女
ジャン2世(1250年頃 - 1294年) - ウー伯
イザベル(1254年頃 -1302/7年) - ダンピエール領主ジャン2世・ド・ダンピエールと結婚
マルグリット(1257年頃 - 1310年5月20日) - トゥアール女子爵
ブランシュ(1260年頃 - 1338年以前) - モビュイソン女子修道院長となり、同修道院教会に埋葬された[4]。
注釈^ 「1256年10月5日木曜日、ポワティエ:ウー女伯・シヴレー、シゼ、メル、ベネ、ラ・モットおよびヴィルヌーヴの女領主マリー・[デクソダン]は、夫のアルフォンス・ド・ブリエンヌにシゼ城主を譲ることを決定し、彼女の上級領主アルフォンス・ド・ポワティエに夫からの臣下の礼を受け入れるよう求めた。」[5]
^ 「アリックスは生前、彼女の孫娘マリーを高貴な領主アルフォンスと結婚させた。アルフォンスはエルサレム王ジャンの息子である。」[7]
脚注^ a b Perry 2013, p. 16.
^ a b Vasselot de Regne 2018, p. 170.
^ Nielen 2004, par. 5no.
^ a b Nielen 2004, par. 29no.
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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