アルフォンス・ジュルダン
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アルフォンス・ジュルダン
Alfonso Jordan
トゥールーズ伯
ルエルグ伯
トリポリ伯
プロヴァンス辺境伯
ナルボンヌ公
1205年のトゥールーズ最初の記録文書(cartulary)におけるジョルダン、ヒストリエイテッド・イニシャル(historiated initial)という飾り文字も見られる
トリポリ伯の一覧
在位期間
1105年 - 1109年
先代レーモン1世
次代ベルトラン
トゥールーズ伯
在位期間
1112年 - 1148年
先代ベルトラン
次代レーモン5世

出生1103年
トリポリ伯国、レーモン・ド・サン=ジルの城塞(英語版)
死亡1148年4月16日(1148-04-16)(44?45歳)
エルサレム王国、カイザリア(英語版)
配偶者フェイディヴァ・ドゥゼ(Faydiva d'Uzes、1125年9月)
子女
レーモン5世
アルフォンス
フェイディヴァ
アニェス
ロランス
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アルフォンス・ジョルダン(Alfonso Jordan)ないしアルフォンス・ジュルダン(Alfons Jordan、Alphonse Jourdain、1103年 - 1148年)は、トリポリ伯1105年 - 1109年)、ルエルグ伯(英語版)(1109年 - 1148年)、トゥールーズ伯プロヴァンス辺境伯、ナルボンヌ公(英語版)(1112年 - 1148年)であったトゥールーズ家の人物。
生涯父レーモン4世1125年にアルフォンスによって取得されたプロヴァンスの地域。アルフォンスは侯爵領を統治した。

トゥールーズ伯レーモン4世とその3番目の妃エルビラ・デ・カスティーリャ(英語版)との間の子である。レーモンが第1回十字軍に参加している間、トリポリのモン・ペレラン(Mont Pelerin)城で生まれ、ヨルダン川で洗礼を受け、「ジュルダン」という名を与えられた[1]

レーモンは2歳のときに亡くなり、5歳になるまで従兄弟のサルダーニャ伯(en)ギレルモ・ジョルダン(en)の保護下にあった。その後、ヨーロッパに連れられ、異母兄のベルトランからルエルグを与えられた。1112年にベルトランが亡くなると、アルフォンスはトゥールーズとプロヴァンスを継承した。

1114年トゥールーズ伯ギヨーム4世の娘であった妻フィリッパの権利によりトゥールーズを領有するアキテーヌ公ギヨーム9世が、同地に侵攻してこれを征服した。1119年にアルフォンスは一部を回復したが、1123年まで完全に支配することはできなかった。しかし奪還後、敵に味方したサン=ジル修道士たちを追放したため、ローマ教皇カリストゥス2世から破門された[1]

アルフォンスは次に、プロヴァンスでの権利を守るために、バルセロナ伯ラモン・バランゲー3世と戦わなければならなかった。1125年9月になってようやくこの戦争は「平和と和平」(pax et concordia)で終結したのである[2]。この時点で、アルフォンスはピレネー山脈アルプス山脈オーヴェルニュ地方と海の間に位置する地域の支配者であった。ある評論家によると、アルフォンスの日の出の勢いは、この14年の間に芸術と産業が繁栄したこの国にとっての慶事であったという[1]1126年3月、アルフォンスはレオンのアルフォンソ7世の宮廷に滞在し、そこで王位に就いた。『アルフォンソ皇帝年代記(Chronica Adefonsi imperatoris)』によると、アルフォンスとスエロ・ベルムデス(Suero Vermudez)は、反対派勢力からレオンの街を奪い、アルフォンソ7世に引き渡したという[3]。アルフォンスがスペインに長期滞在する際に同行したと思われる人物に、トルバドゥール(吟遊詩人)のマルカブリュがいる[4]ナルボンヌで12世紀半ばに鋳造されたドゥニエ。裏面にDUX ANFOS、CIVI NARBONと記されている。

1134年頃になると、アルフォンスはナルボンヌ子爵(英語版)領を奪い、ナルボンヌ女子爵エルマンガルド(en)が幼年の間支配下に置いたが、1143年にエルマンガルドの手に戻っている。1141年ルイ7世は妻のアリエノール・ダキテーヌのためにフィリッパの領有権を主張し、トゥールーズを包囲したが、結果が伴わなかった[1]。同年、アルフォンスは再びスペインを訪れ、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路で聖ヤコブに巡礼していた。彼はレオン王とナバラ王だったガルシア6世の間に和平を提案し、これがその後の交渉の基礎となることになる[5]

1144年、アルフォンスはモンペリエの市民を味方にしてモンペリエ領主(英語版)と対立し、再び教会の不快感を煽ることとなった。1145年クレルヴォーのベルナルドゥスは、トゥールーズ教区のアンリという異端者について懸念の意を示す手紙を彼に宛てた。ベルナルドゥスはトゥールーズに出向いてアンリを説いたが、これはカタリ派の初期の表現である[6]。結局二度目に彼は破門されたが、1146年、ルイ7世が招集したヴェズレーの集会で十字架を背負い(十字軍出陣の誓いを意味する)、そのまま1147年8月に出陣し第2回十字軍[注釈 1]として近東行きの船に乗った[1]。途中、イタリアやコンスタンティノープルに滞在し、マヌエル1世コムネノスに会ったと考えられる。

アルフォンソは1148年にアッコンに到着した。しかし同地では仲間の中に敵を作り、十字軍に参戦できなかった[1]。アルフォンソはカイザリア(英語版)で死去し[7]、毒殺の疑いがかけられたが、この場合、通常ルイの妻アリエノールか、あるいはエルサレム王ボードゥアン3世の母メリザンドが[7]、義弟トリポリ伯レーモン2世のライバルであった彼を排除したい思惑があったのではないかという。


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