アルファフリー
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『アルファフリー(アラビア語 Kit?b al-Fakhr?)』とは、1302年イブン・アッティクタカーによって成立したアラビア語による歴史書帝王学の著作である。原題は『支配者の教養とイスラーム諸王朝に関するファフリー』( ?????? ?? ?????? ????????? ?????? ????????? al-Fakhr? f? al-?d?b al-Sul??n?yah wa al-Duwal al-Isl?m?yah)と言い、イルハン朝第7代君主ガザン・ハン治世下でモースル総督であったファフルッディーン・イーサー・ブン・イブラーヒームに献呈された。書名の「ファフリー(al-Fakhr?)」とは本書を献じられた相手ファフルッディーン・イーサーの尊称「ファフルッディーン(Fakhr al-D?n 「信仰の誇り」の意)」に由来する。
概要

1262年に生まれたイブン・アッティクタカーはシーア派を信奉する正統カリフアリーの一門(サイイド)に連なるラマダーン家の第20代の子孫を称する名門の出身であった。父タージュッディーン・アブー・ハサンはイルハン朝第2代君主アバカの時代にシーア派の聖地であるイラク地方のクーファバグダードにおけるシーア派一門の頭領・ナキーブ職(naq?b)を勤めた人物であった。しかし、タージュッディーンは1281年に同王朝のバグダード方面の長官(ハーキム)であったアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの讒訴によって殺害され、イブン・アッティクタカーは父の後を継ぎ、ヒッラおよびシーア派の二大聖地であるナジャフカルバラーにおける同派のナキーブとなった。

上述のように、本書の題名はモースル総督のファフルッディーン・イーサー・ブン・イブラーヒームに捧げたことに由来する。イブン・アッティクタカーは本書序文に執筆の動機について述べており、それによると1301年、ガザン治世時代にイブン・アッティクタカーはタブリーズに上京する途中モースルで豪雨にあったため、「寒さが和らぐまで」しばらく同地に逗留する事になったという。そこで逗留地のモースル総督のファフルッディーン・イーサー・ブン・イブラーヒームから歓待され、政治力の公正さや理性や寛大さなどのその人柄に優れていたため、彼に仕えようと思い立ち、本書を捧げて領主としての手引きとして欲しいと望んだと述べている[1]

本書は序文に続いて、第1章「君主の政治と政策」、第2章「王朝各論」から成り立っている。第1章「君主の政治と政策」では支配権や宗教問題など法学諸派のの見解に基づくイスラーム法(シャリーア)による政治について論じたり紹介するのではなく、あくまで「諸々の実際に起こった事件や争いの中で、臣民を統治し、王国を安全に守り、倫理行為を改善しようとする場合に有効な政治とその慣習」を記述した物である、と述べている[2]。第1章「君主の政治と政策」では歴史上の現実政治において、歴代の君主たちが行った政策や品行など善し悪しや優劣についてを人物評価の基準としており、規範たる君主や指導者として古代のアレクサンドロス大王サーサーン朝アルダシール1世シャープール1世ホスロー1世や預言者ムハンマド、正統カリフ・ウマル等をあげており、他にも歴代カリフたち、宰相たちの事蹟や逸話、詩文を用いて比較する。そのうえで優れた君主とはどのような性質を備えており、また、備えるべき好ましい性質とは何か、日々の品行や執政における賞罰などの慎重さ・公正さの必要性、神からの恩恵への感謝の念や信仰心の大切さなどを説いている。

また、跋文に統治者として最も緊要な資質として理性と公正を挙げている。知識によって理性は獲得されるものであり、また公平さを備えている人物ならばイスラム教徒でなくとも望ましい。ただし王者に必要な知識とは専門家と相談することを可能にする程度に学問に親しむことである。全てを知る必要はなく、政治家は博識さを宣伝する必要はない。王者の資質として信仰心も強調されており、人間は過失の上で成り立っているために憎悪や怒りの感情に支配されてはならないように注意しなければならない。王者の徳目には気前よさや約束を守る信義、そして忍耐などもある。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ただし王者は臣民の種類を見分けた統治を行わなければならず、上流階級は崇高な人徳と優しい指導、中流階級には飴と鞭、そして下流階級は恐怖と正義の強制により統治しなければならない[要出典]、としている。

第2章「王朝各論」では初代正統カリフアブー・バクルからアッバース朝最後のカリフムスタアスィムまで治世順に配列しており、正統カリフ4代に続き、ウマイヤ朝、アッバース朝の歴代カリフたちとその治世での事蹟、事件、宰相ワズィール)たちの事蹟を各論で述べる形式となっている。
本書の特徴

本書は1869年にドイツの東洋学者アールヴァルト Wilhelm Ahlwardt (1828年 ? 1909年)の抄訳と紹介によってヨーロッパで知られるようになり、1895年にフランスのドランプール Hartwig Derenbourg による完本の校訂本、1910年に同じくアマル M. Emil Amar によるフランス語完訳が出版され、1957年にはホワイティング Charles Edward Jewell Whitting が英訳した。

本書でイブン・アッティクタカーは当時流布していたハリーリーバディーウッザマーン・ハマザーニーの『マカーマート』と比較し、これらマカーマ文学が智恵や工夫、経験などについて語っているものの有益な部分もありながら往々にして品性を卑しくするような有害な部分ばかりが目立っていることを指摘して批判し、本書がアッバース朝時代の詩人アブー・タンマームAb? Tamm?m(805年 - 845年)の『ハマーサ詩集』(al-?am?sa)に比するような「政治の原理や統治の手立てとして有益なもの」であると唱っている。また、シーア派では特に主要文献として学ばれていたイマーム・アリーの言行を集めたハディース集『ナフジュル=バラーガ(Nahj al-Bal?gha)』や、ウトビー Ab? Na?r al-?Utb? が著したガズナ朝スルターン・マフムードの伝記『ヤミーニー史』(Ta'r?kh al-Yam?n?)とも比較しており、これらはいずれも正則アラビア語の修辞や技巧を凝らした模範とすべき作品であること、加えて前者が宗教上の規範や神学を学べる作品であり、後者は面白い智慧や君主の独創的な生涯を記述した事で優れた特徴を有している点を評価しつつも、時に文学的であるがゆえの誇張が過ぎる場合もまま見られるため、それらと比較した場合、本書は君主の品行や政治論について述べるという目的のための表現の簡潔性にも配慮している点に優れていることもほのめかしている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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