アルバ公爵
創設時期1472年
創設者エンリケ4世
貴族スペイン貴族
初代ガルシア・アルバレス・デ・トレド
トルメスのアルバ公爵(スペイン語: Ducado de Alba de Tormes)は、スペイン貴族の公爵位。グランデの格式を伴う。1472年にカスティーリャ王エンリケ4世によってガルシア・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)が所有するアルバ伯の称号がアルバ公に昇格されたことに始まる。
歴史アルバ公爵家のマドリードの邸宅リリア宮殿(スペイン語版)
1439年にフェルナンド・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)(1390-1464)の持つアルバ卿がアルバ伯爵に昇格し、さらに1472年にガルシア・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)(1424頃?1488)が所有するアルバ伯の称号がアルバ公爵に昇格されたことに始まる。
その曽孫の第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507?1582)は、16世紀のスペイン軍人として著名である。スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)やフェリペ2世に重用され,プロテスタントの撲滅の戦争に転戦した。1567年にはスペイン領ネーデルラント総督(英語版)に就任して「血の評議会」と呼ばれる宗教裁判を実施し、エフモント伯らプロテスタントを大量に処刑し、それが八十年戦争(オランダ独立戦争)の原因となった。しかしオランダ制圧に失敗し、1573年に総督交代となり、1580年からはポルトガル合併の征服戦争に起用された[2]。
10代アルバ公フランシスコ・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)(1662-1739)までアルバ家の男系男子で続いたが、11代アルバ公は10代公の娘マリア・テレサ・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)(1691?1755)が継承。彼女は第9代ガルべ伯爵(スペイン語版)マヌエル・デ・シルバと結婚し、夫妻の子孫がアルバ公爵位を継承することになったので、シルバ家(スペイン語版)に継承される爵位となった[3]。
11代女公の娘マリア・デ・シルバ(1718-1790)は、ステュアート朝のイングランド王ジェームズ2世と愛妾アラベラ・チャーチルの間の庶子である初代ベリック公爵ジェームズ・フィッツジェームズ(初代リリア=ヘリカ公爵(スペイン語版)でもある[4])の直系子孫である第3代リリア=ヘリカ公(3代ベリック公)ハコボ・フランシスコ・フィツ=ハメス・ステュアルト(スペイン語版)(1718-1785)と結婚し[5]、二人の曽孫である第7代リリア=ヘリカ公爵カルロス・ミゲル・フィツ=ハメス・ストゥアルト(スペイン語版)(1794?1835)が1802年に14代アルバ公爵を継承したことによって、以降のアルバ公爵位はフィツ=ハメス・ステュアルト家(Fitz-James Stuart)に継承される爵位となった[6]。
スペイン内戦でアルバ公爵フィツ=ハメス・ステュアルト家のマドリードの邸宅リリア宮殿(スペイン語版)は焼失した[7]。しかし17代公ハコボ・マリア・デル・ピラール・カルロス・マヌエル・フィツ=ハメス・ストゥアルト・イ・ファルコ(スペイン語版)(1878?1953)と18代女公カイエターナ・フィツ=ハメス・ストゥアルト(1926-2014)によって再建された。17代公はイギリスの建築家エドウィン・ラッチェンスに設計と建設を依頼し、彼の死後にそれを基に建設された[8]。
現在のアルバ公爵およびアルバ家当主は、19代アルバ公のカルロス・フィツ=ハメス・ストゥアルト(スペイン語版)(1948-)である[9]。
マドリードのリリア宮殿の他、セビリアのラス・ドゥエーニャス宮殿(スペイン語版)もアルバ公爵家の所有である[10]。 現当主カルロス・フィツ=ハメス・ストゥアルト
現当主の保有爵位
グランデの格式を持つ爵位
公爵位
トルメスの第19代アルバ公爵[11]
第14代ウエスカル公爵(スペイン語版)[12]2015年に息子のフェルナンド(スペイン語版)に譲る[13]
第12代ベリック公爵[14]