アルバート・マイケルソン
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Albert Michelson
アルバート・マイケルソン
Albert Abraham Michelson
生誕 (1852-12-19) 1852年12月19日
プロイセン王国 ポーゼン州(英語版)シュトレルノ
(現: ポーランド クヤヴィ=ポモージェ県ストシェルノ(英語版))
死没1931年5月9日(1931-05-09)(78歳)
カリフォルニア州パサデナ
国籍 アメリカ合衆国
研究分野物理学
研究機関ケース工科大学
クラーク大学
シカゴ大学
出身校アメリカ海軍兵学校
ベルリン大学
博士課程
指導教員ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ
他の指導教員マリー・アルフレッド・コルニュ
博士課程
指導学生ロバート・ミリカン
主な業績光速
マイケルソン・モーリーの実験
主な受賞歴ノーベル物理学賞 (1907)
コプリ・メダル (1907)
署名
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1907年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:干渉計の考案とそれによる分光学およびメートル原器の研究

アルバート・エイブラハム・マイケルソン(Albert Abraham Michelson, 1852年12月19日 - 1931年5月9日)は、アメリカ物理学者アメリカ海軍士官光速度エーテルについての研究を行った。1907年光学に関する研究によってノーベル物理学賞を受賞した。これは科学部門における、アメリカ人初の受賞でもある。
生涯

プロイセン王国のストシェルノ(en)(現在のポーランド領)で、ユダヤ人一家に生まれる[1]。2歳の時に両親とともにアメリカへ渡った。父は鉱山町で商人として働いていたため、マイケルソンはカリフォルニア州マーフィーズ(en)やネバダ州バージニア・シティーといった町で育った。高校時代はサンフランシスコの叔母の下で過ごした。なお、この叔母の娘が作家となった Harriet Lane Levy である[2]

1869年、大統領ユリシーズ・グラントの命によってアメリカ海軍兵学校に入学。そこで4年間、光学気候学、製図などを学んだ。1873年に卒業すると海軍に入隊して2年間洋上で過ごし、1875年には兵学校に戻って1879年まで化学物理学の講師を務めた。1879年、ワシントンの航海年鑑局に異動となり、サイモン・ニューカムと共に働くようになった。しかし翌年彼は休暇を願い出て、ヨーロッパで学ぶための旅に出た。ベルリンハイデルベルクの大学、パリのコレージュ・ド・フランスエコール・ポリテクニークを訪れている。

マイケルソンは科学に魅了され、特に光速度の測定という問題に惹かれるようになる。1877年、兵学校での授業の一環としてアナポリスで光速度測定実験を初めて行った。ヨーロッパで二年間学んだ後、1881年に海軍を退官。このころマイケルソン干渉計を発明。1883年オハイオ州クリーブランドケース工科大学で物理学教授の職を得、そこで干渉計の改良に取り組んだ。1887年エドワード・モーリーと共に有名なマイケルソン・モーリーの実験を行い、エーテルの存在を事実上否定することになった。その後天体干渉計を使った天体観測に転向し、天体の直径の測定や連星の距離の測定などを行った。

1889年マサチューセッツ州ウースターのクラーク大学の教授となる。1892年には新たに創設されたシカゴ大学物理学部門の学部長に就任した。

1899年に結婚。1人の息子と3人の娘をもうけた。

1907年、「干渉計の考案とそれによる分光学およびメートル原器の研究」によりアメリカ人初のノーベル物理学賞を受賞。同年、コプリ・メダルも受賞した。また、1916年にはヘンリー・ドレイパー・メダル、1923年には王立天文学会ゴールドメダルを受賞。には彼の名を冠したクレーターがある。

78歳のとき、カリフォルニア州パサデナで死去。シカゴ大学には彼の名を冠した建物 ⇒Michelson House がある。ケース・ウェスタン・リザーブ大学にも彼の名を冠した建物があり、アメリカ海軍兵学校の化学部門の建物もマイケルソンの名を冠している。カリフォルニア州リッジクレストのチャイナレイク海軍武器補給所にあるマイケルソン研究所もマイケルソンに因んだものである。
光速度マイケルソンの Experimental Determination of the Velocity of Light の1ページ
初期の測定第一次世界大戦の際にアメリカ海軍で士官をしていた頃に撮影された写真

アメリカ海軍士官だった1877年ごろから、マイケルソンはレオン・フーコーの回転鏡を使った光速度測定法の改良を計画し始めている。1878年、大幅に改良した装置を使った最初の測定を行い、同様の研究を計画していたサイモン・ニューカムに注目されるようになった。1879年、マイケルソンは 299,910±50 km/s という測定値を発表しており、その後ワシントンD.C.サイモン・ニューカムの下でニューカムの測定実験の助手を務めることになった。その後2人は親友となり、長い協力関係を築くことになる。

ニューカムのプロジェクトは資金も潤沢で、299,860±30 km/s という測定値を得ている。これはマイケルソンのそれまでの結果よりさらに正確である。マイケルソンはその後も技法の改良に取り組み、1883年に 299,853±60 km/s という測定結果を発表。ニューカムのものよりさらに正確さが増している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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