アルバート・シドニー・ジョンストン
Albert Sidney Johnston
アルバート・シドニー・ジョンストン将軍
生誕1803年2月2日
アメリカ合衆国, ワシントンD.C.ジョージタウン
死没1862年4月6日(59歳没)
アメリカ連合国, テネシー州スプリングヒル
所属組織アメリカ合衆国陸軍
テキサス共和国陸軍
アメリカ連合国陸軍
軍歴1826年-1834年( アメリカ合衆国)
1830年-1840年(テキサス)
1846年-1861年( アメリカ合衆国)
1861年-1862年( アメリカ連合国)
最終階級大将(CSA)
指揮ミシシッピ軍
戦闘
ブラック・ホーク戦争
テキサス革命
米墨戦争
モンテレーの戦い
ブエナ・ビスタの戦い
アルバート・シドニー・ジョンストン(英: Albert Sidney Johnston、1803年2月2日-1862年4月6日)は、アメリカ陸軍の職業軍人であり、テキサス軍およびアメリカ連合国軍では将軍だった。その軍歴では広範な経験があり、テキサス革命、米墨戦争、ユタ戦争および南北戦争で参戦した。
アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスからは、ロバート・E・リーの出現以前の南軍で最も洗練された将軍と見られていたが、南北戦争初期のシャイローの戦いで戦死した。戦争中の南北両軍の戦死者のうちで、最も上級の士官となった[1]。デイヴィスはジョンストンを失ったことを「我々の運命の転換点」と考えた[2]。 ジョンストンはケンタッキー州ワシントンで、ジョン・ジョンストン博士とアビゲイル・ハリス・ジョンストン夫妻の一番下の息子として生まれた。父はコネチカット州サリスベリーの生まれだった。ジョンストンはケンタッキー州で生まれたが、その人生の大半はテキサス州で過ごしており、自身もテキサスを故郷と見なした。ケンタッキー州レキシントンにあるトランシルバニア大学で教育を受けており、このときの学友にジェファーソン・デイヴィスがいた。二人共に陸軍士官学校への入学を指名されたが、デイヴィスが2年後輩となった[3]。1826年、同期41人中8番目の成績でウェストポイントを卒業し、第2アメリカ歩兵連隊の名誉少尉として任官した[1]。ニューヨーク州とミズーリ州での任務の後に1832年にはヘンリー・アトキンソン将軍の参謀長としてブラック・ホーク戦争に参戦した。1829年に、ヘンリエッタ・プレストンと結婚した。1834年には除隊して重篤であった妻の看病のためにケンタッキー州に戻ったが、妻は2年後に結核で死んだ[3]。夫妻には1人の息子が生まれ、後に南軍のウィリアム・プレストン・ジョンストン 1834年4月、ジョンストンはテキサスで農業を始めたが、1836年にメキシコ共和国に対して独立戦争を起こしたテキサス共和国軍の兵卒になった。1ヶ月後に少佐に昇進し、サミュエル・ヒューストン将軍の副官となった。8月5日には、テキサス共和国軍の大佐として総務局長となった。1837年1月31日、テキサス軍を指揮する上級准将となった。 1837年2月7日、ジョンストンはテキサス軍の指揮権を争ってフェリックス・ハストン准将と決闘した。ジョンストンはハストンに向けて発砲することを拒み、このときに骨盤を負傷した後で、その地位を失った。テキサス共和国の第二代大統領ミラボー・B・ラマーが1838年12月22日にジョンストンを陸軍長官に指名した。
初期の経歴
テキサス軍