アルバート・アイラー
Albert Ayler
アルバート・アイラー(1967年-1968年)
基本情報
生誕1936年7月13日
出身地 アメリカ合衆国 オハイオ州 クリーブランド
死没 (1970-11-25) 1970年11月25日(34歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州
ジャンルジャズ
フリー・ジャズ
アヴァンギャルド・ジャズ
職業サクソフォーン奏者
歌手
作曲家
担当楽器サクソフォーン
活動期間1952年 - 1970年
レーベルESPディスク・レコード
インパルス!レコード
アルバート・アイラー(Albert Ayler、1936年7月13日 - 1970年11月25日)は、アメリカのアヴァンギャルド・ジャズ・サックス奏者、歌手、作曲家。
1960年代のフリー・ジャズにおける重要人物の一人である。評論家のジョン・リトワイラーはアイラーについて「これまでには決して存在しなかった。ジャズの歴史の中で、これほどまでに剥き出しの攻撃性というものがあっただろうか」[1]と書いた。
アイラーの音色は、深みのある激しいものだった。それは、テナー・サックスに固いプラスティックのファイバーケインの4番のリードを使うことで得られたものだった[2]。そして幅のある、悲哀に満ちたヴィブラートを使用するのである。
トリオとカルテットによる1964年のレコード、例えば『スピリチュアル・ユニティ』『ヒルヴェルスム・セッション』等で、アイラーは即興演奏においてジョン・コルトレーンやオーネット・コールマンから影響を受け、ジャズを抽象的な領域にまで発展させた。その結果、旋律を伴った和声だけでなく、音色や音質までも、音楽の土台となることが実証された。アイラーの、恍惚感すら感じられる1965年や1966年の音楽、『スピリッツ・リジョイス』や『真実が(行進して)やってくる』等は、批評家にブラスバンドの音と比較されたりしてきた。そして、そうした曲では、単純で行進曲のようなテーマと、激しい集団即興
とが交互に現れては繰り返され、ジャズの「ルイ・アームストロングのルーツ」までも思い起こさせるものだと受け止められたのである[3]。オハイオ州クリーブランドに生まれる。アイラーが最初にアルト・サックスを習ったのは、父エドワードからだった。アイラーとエドワードは、教会で二重奏を披露していたのである。クリーブランド東部にあるジョン・アダムズ・ハイスクールに入学し1954年に18歳で卒業する。アイラーは高校ではオーボエも吹いていた。その後、クリーブランドの音楽学校でベニー・ミラー
に師事し音楽を学ぶ。10代の学生としては優れた技量を身につけていたため彼はクリーブランド近辺で「バード」のあだ名を持つチャーリー・パーカーにちなみ「リトル・バード」として知られるようになった[4]。弟のドナルド・アイラーもプロのトランペット奏者で、兄弟共演したこともある。
1952年、16歳の時、アイラーはブルースの歌手でハーモニカも演奏するリトル・ウォルターと一緒に、時に自動車のクラクションにも似た音を出しながらR&Bのスタイルのテナーを演奏し、酒場でのライブ活動を始めた。こうして夏休みを2年連続でウォルターのバンドで演奏するのに費やしたのである。高校卒業後、アイラーは軍隊に入隊し、そこでいろいろなミュージシャンと即興演奏を披露しあった。そうした相手の中には、テナーのスタンリー・タレンタインもいた。アイラーは連隊のバンドでも演奏した。1959年にはフランスに駐在し、晩年の演奏活動の根源を成す影響を与えたと思われる軍楽にますます親しむこととなった。軍隊を除隊後、アイラーはロサンゼルスとクリーブランドで音楽で身を立てようとしたが、彼の演奏が伝統的な演奏のスタイルを打破する傾向をますます強めていたため、つまり伝統的な和声からますます遠ざかるものとなっていたため、クラシックなスタイルを身上とするミュージシャン達からは歓迎されなかった。
アイラーは1962年にスウェーデンに移住し、そこで録音を積み重ねていった。ラジオの収録にスウェーデンやデンマークのグループを率いて出演したり、1962年から1963年にかけての冬にはセシル・テイラーのバンドにノーギャラのメンバーとして参加して演奏したりしている(長く噂になっていた、テイラーのグループに参加したテープは、2004年にレヴァナント・レコードから発売された9枚組CDに収められている[5])。アルバム『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー』では、スタンダードを演奏している。コペンハーゲンのラジオ局のために、地元のミュージシャンとのセッションを録音したものである。ミュージシャンの中には、ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンやドラマーのロニー・ガーディナーたちがいた。アイラーはテナーの他にソプラノ・サックスを「サマータイム」といった曲で使用している。 アイラーはアメリカに戻り、ニューヨークで活動を始める。ベーシストのゲイリー・ピーコック、ドラマーのサニー・マレイ
1960年代の音楽活動
アイラーのトリオは、オーネット・コールマンらのフリー・ジャズの後継者だった。マレイは安定した周期的なリズムを刻むことはまずなく、またアイラーのソロはスピリチュアルなものであった。しかしトリオでの演奏は依然としてジャズの伝統を感じさせるものだった。このグループによる次の演奏は、トランペッターの弟ドナルドが加わったもので、これまでの演奏のあり方を根底から覆すものだった。アルバム『ベルズ』から始まる、ニューヨーク・タウンホールでのコンサートの録音には、ドナルド・アイラー、チャールズ・タイラー、ルイス・ウォレル、サニー・マレイらが参加している。アイラーは連続して行進曲、?あるいはメキシコの伝統的な音楽のスタイルと言うべきか?、を演奏する方法を採り入れ始めていた。彼らはテーマと、複数のサクソフォーンが同時にフリーな即興演奏を倍音を出しながら吹くパートとを交互に演奏した。野性的かつ唯一無二なその音は、アフリカがルーツと思われる集団即興に立ち帰らせるものであった。この新しい音は、スタジオ・アルバム『スピリッツ・リジョイス』で確固たるものとなり、さらに同じ顔ぶれによるニューヨークのジャドソン・ホールでの演奏が録音された。アイラーは、1970年にインタビューで、自らの後期の演奏のスタイルを「エナジー・ミュージック」と呼んでいる。これは、そもそもアイラーと、コルトレーンやサン・ラらが演奏していた「インターステラー・スペース」[7]と対比してのことである。 この方法は『ヴィレッジ・コンサーツ』まで続き、アイラーが本でいうように、ESPレコードはフリー・ジャズの主要なレーベルとしての地位を確立した。
1966年、アイラーはコルトレーンの強い勧めもあってインパルス!レコードと契約した。コルトレーンは当時インパルスの中心的な呼び物とでもいうべき存在だった。しかし、インパルスから録音を発表するようになったにも関わらず、アイラーの根底から従来の音楽とは異なった演奏が多数の聴衆を獲得することは、決してなかった。コルトレーンは1967年に亡くなったが、アイラーは彼の葬儀で演奏した数人の演奏家の一人であった。1967年後半には弟ドナルド・アイラーがいわゆる神経衰弱となった。ニュージャージー州ニューアークで発行されていた音楽雑誌『クリケット』の編集者アミリ・バラカとラリー・ニールへ宛てた手紙の中で、アイラーは「空中に不思議な物体が浮かんでいるのを目撃した」と語り、彼と弟は「額に全能の神のしるし」をつけられていると信じるようになった、と語っている[8]。