アルバン・ベルク
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アルバン・ベルク
Alban Berg
アルバン・ベルク(1930年頃)
基本情報
生誕1885年2月9日
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没 (1935-12-24) 1935年12月24日(50歳没)
オーストリアウィーン
職業作曲家
活動期間1907 - 1935
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アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年2月9日 - 1935年12月24日)は、オーストリア作曲家アルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残した。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。
経歴

ベルクはウィーンで富裕な商家の子供として生まれた。幼い時から音楽や文学に興味を抱き早熟な少年時代を送る。15歳の時、父が没した頃から独学で作曲を試みるようになる。この時の現存する多数の歌曲は1980年まで封印されていた[1]

1902年にはベルク家の別荘で働いていた女中、マリー・ショイヒルとの間の私生児(娘)の父となり、翌年にはギムナジウム卒業試験に失敗して自殺を図るなど10代後半の私生活は波瀾に彩られたものだった。

1904年、ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込み、シェーンベルクや同門のヴェーベルンとの交友が始まる。ベルクはギムナジウム卒業後、公務員となるが作曲活動に打ち込むためわずか2年で辞職し、ウィーン国立音楽院に入学。

1907年、『4つの歌曲』作品2などの曲で本格的な作曲家デビューを飾る。

1908年7月23日、宿痾の病となる喘息を発病、この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数と決め、この数は以後の作品の構成を彩る事になる。

1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。ヘレーネの母アンナはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われており、ベルクの周辺では気位の高い女性として知られていた。

1912年、『アルテンベルク歌曲集』作品4を完成するも師シェーンベルクの反応は色よいものではなく、この歌曲集の完全初演はベルクの死の17年後まで持ち越される。

1914年ゲオルク・ビューヒナー戯曲ヴォイツェック』の上演に接したベルクはこの戯曲を基にした無調音楽のオペラの作曲を始めたが、この年に第一次世界大戦が勃発、翌年から兵役に服する事になり作曲が不可能になったが、1917年になって休暇を与えられ、歌劇『ヴォツェック』作品7の作曲再開に踏み切った。『ヴォツェック』の完成はその5年後の事である。

「ヴォツェック」完成後、シェーンベルク50歳の誕生日に献呈するべく、ピアノ・ヴァイオリン・13管楽器のための室内協奏曲に取り組むも50歳の誕生日(1924年9月13日)には間に合わず、1925年に完成する。

その同じ年に歌劇「ヴォツェック」がベルリン国立歌劇場エーリヒ・クライバー指揮によって初演された。初演にあたって34回ものオーケストラ練習と14回のアンサンブル練習が行われ、分奏を含めると総計150回の練習が行われたという。ベルクと指揮者は激しい批判に晒されるが、この作品によってベルクの作曲家としての名声は揺るがぬものとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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