アルバニア・ヴェネタ
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1560年当時のヴェネツィア共和国。ピンク色部分がアルバニア・ヴェネタ。カッターロ(コトル)周囲のラグーサ共和国の南にあたる

アルバニア・ヴェネタ (イタリア語: Albania Veneta)は、1420年から1797年まで存在した南ダルマチアヴェネツィア共和国領。最初は、現在の北アルバニアモンテネグロアドリア海沿岸のことを指した。しかしアルバニアと南モンテネグロは1571年オスマン帝国に奪われた[1]
名称と地理

アルバニア・ヴェネタのヴェネタとは、コソヴォから南アルバニアまで広がるオスマン帝国領アルバニア(Albania Ottonia、アルバニア・オットニア)と区別するために「ヴェネツィア領」であることを示すため用いられた[2]

これらのヴェネツィア領はラグーサ共和国(現在のドゥブロヴニク)の南部国境からアルバニア沿岸の町ドゥラッツォ(Durazzo、現在のドゥラス)まで伸びていた。ヴェネツィア領は、アドリア海から20km以上内陸へ到達することはなかった。1573年以後、アルバニア・ヴェネタの南限はブドゥア(Budua、現在のブドヴァ)近郊の村コンフィン(現在のクフィン)へ移った。オスマン帝国がアンティヴァーリ(Antivari、現在のバール)、ドゥルチーニョ(Dulcigno、現在のウルツィニ)を征服したためだった。

ヴェネツィアの領土はカッターロ(Cattaro、現在のコトル)、リサーノ(Risano、現在のリサン)、ペラスト (Perasto)、ティヴァトヘルツェグ・ノヴィブドヴァ、ストモーレを含むコトル湾周辺に集中していた。
歴史

10世紀頃、ヴェネツィアは定期的にダルマチア南部沿岸の小村を保護していた。しかし1420年まで支配は固定されなかった。ヴェネツィア人はダルマチア語を素早くヴェネツィア語へ取り込んだ。コトル周辺のヴェネツィア領は、ヴェネツィア共和国の県であるアルバニア・ヴェネタとして1420年から1797年まで続いた[3]

15世紀にオスマン帝国がバルカン半島征服を開始すると、ヴェネツィア領ダルマチアにおけるキリスト教徒のスラヴ人人口が膨大にふくれあがった。侵略を恐れて、正教会信徒らが同じキリスト教徒の治めるアルバニア・ヴェネタへ逃げてきたのである。オスカル・ランディの著作によると、17世紀終盤、歴史的なアルバニア・ヴェネタのロマンス語人口は少数派となっていた[4]

フランス帝国1797年にヴェネツィア共和国を消滅に追いやると、アルバニア・ヴェネタ地域は幾度もその宗主国が変わることになった。1805年ナポレオン・ボナパルトの傀儡国家、イタリア王国へ併合されたのである[5]。1809年、フランスのイリュリア州の一部となり、1815年にはとうとうオーストリア帝国領ダルマチアとしてハプスブルク家支配下に入った。

オーストリア帝国では、1878年ベルリン会議でストモーレ周辺のその他の40平方kmの領土が帝国領ダルマチアへ加えられた。
アルバニア・ヴェネタのヴェネツィア語話者の歴史

ダルマチア出身の歴史家ルイージ・パウルッチによると、ヴェネツィア共和国時代の数世紀でアルバニア・ヴェネタ住民はコトル湾内のカッターロなど都市部で主としてヴェネツィア語を話していた(人口の約66%)。ブドヴァにある、ヴェネツィアが築いた城壁。1900年の絵はがき

しかし18世紀前半では、内陸へ行くと人口の半分以上がセルビア・クロアチア語を話していた。パウルッチは、アルバニアとの国境地帯にすらアルバニア語話者の大きな共同体があったと書いている。ドゥルチーニョは人口の半分がアルバニア人で、1/4がダルマチア・イタリア人、1/4がスラヴ語を話していた[6]

カッターロ一帯がフランス支配下にあった頃、学校はイタリア語が使われていた。アルバニア・ヴェネタはナポレオンのイタリア王国領だったからである[7]

スロヴェニア人のマルコ・トログルリは、自身の随筆で「フランスの学校制度がフランス領ダルマチアで採用された」と記した。フランスが任命したダルマチア知事ヴィンチェンツォ・ダンドロは、地元ダルマチアの教育庁出身の士官バルトロメオ・ベニンカーサ同様1807年5月に県の公教育の計画を発表した。そこでは、ナポレオンのイタリア王国中に教育制度を一致させなければならない。教育者はイタリア人であるべきだ、としていた[8]

19世紀、歴史家スカリオーニ・マルツィオによると、イタリアのオーストリア帝国からの独立戦争がオーストリア領南ダルマチアでのイタリア語(ヴェネツィア語)話者社会に対する悩みの種を生み出してしまった[9]

アルバニア人は、ウルチニとドゥラス周辺のアルバニア・ヴェネタ南部に住んでいた。コトル湾周辺はスラヴ人とラテン系住民が占め、彼らはほとんどがカトリック教徒であった[10]

1880年にカッターロで行われたオーストリアの調査の結果、民族的にイタリア人だと自称する者はたった930人だった(2,910人の人口のうちたった32%)。1860年のヴェネツィアの地図。コトル湾が見える

さらに、1910年のオーストリア帝国の調査では(ディエゴ・デ・カストロの著作による)、カッターロのイタリア人人口はわずか13.6%に減少していた[11].。

現在、モンテネグロには500人のダルマチア・イタリア人がおり、主としてコトルとペラスト地域にいる。ダルマチアでのイタリア語話者の消滅は、第二次世界大戦後に決定的なものとなった。言語学者マッテオ・バルトーリは、「ナポレオン戦争中のダルマチア人口の33%はダルマチア・イタリア人であった。一方で現在はクロアチア領ダルマチアにわずか300人、モンテネグロ沿岸に500人のダルマチア・イタリア人がいるだけである」と著書に記している[12]
ペラスト

モンテネグロ沿岸でのイタリアの存在の持続した例は、コトル湾に面した小さな町ペラストである。1900年の絵はがき。ペラストにあるヴェネツィア建築を描いている

ヴェネツィア共和国支配下の18世紀、ペラストは最盛期を迎えていた。4箇所の活気ある造船所、100隻前後の船舶、1,643人の住民を抱えていた。当時、建築様式の目をひく建物のいくつかがこの城壁で囲まれた町で建設された。多くの装飾を凝らしたバロック建築の邸宅、典型的なヴェネツィア建築が多い壮麗な住居がペラストの町を彩っていた[13]。ペラスト市民は、戦争でない時にヴェネツィア海軍の戦旗を掲げられる権利を授かっていた(その権利はラ・フェデリッスマ・ゴンファロニエーラと呼ばれた) ⇒[1]

ペラスト出身の船乗りたちは、1797年にヴェネツィアが戦った最後のヴェネツィア海軍の戦闘に参加していた ⇒[2]。1797年5月12日にヴェネツィア共和国は消滅したが、アルバニア・ヴェネタにある数カ所の町は、その後数か月間ヴェネツィア共和国領のままであった。ペラストは最後に降伏した共和国領であった。1797年8月22日、ペラストの隊長であるジュゼッペ・ヴィスコヴィッチ伯は涙にくれる市民の前で惜別の言葉を述べ、聖マルコのライオンが描かれたヴェネツィア海軍の戦旗を降ろした。そして、ペラスト第一の教会の祭壇の下にヴェネツィアの旗を埋めた。

その後、ペラスト人口は減少に転じ、1910年に430人、2001年には360人ほどとなった。在モンテネグロのイタリア人共同体によれば、ペラストには現在家庭でヴェネツィア語ペラスト方言を話す人が140人おり、彼らは調査上ではモンテネグロ人と自称している。
ギャラリー

コトルにある、カトリックの聖トリフォン教会

典型的なヴェネツィア風の鐘楼を持つペラストの教会

1900年の絵はがき。ペラストのヴェネツィア建築を描いている

コトル旧市街

ヴェネツィア時代の城壁、コトル


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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