アルドゥイーノ・ディヴレーア
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アルドゥイーノ
Arduino
イタリア王

在位1002年 - 1014年
(1004年より対立王)
別号イヴレーア辺境伯

出生955年

死去1015年12月14日
フルットゥアーリア修道院
配偶者ベルタ・ディ・トスカーナ
子女一覧参照
家名イヴレーア家
父親ポンビア伯ダドーネ
宗教カトリック教会
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スパローネのサンタ・クローチェ要塞教会。スパローネ要塞またはアルドゥイーノ要塞としても知られ、伝説によると、アルドゥイーノがここで皇帝ハインリヒ2世に抵抗したという。

アルドゥイーノ・ディヴレーア(Arduino d'Ivrea, 955年 - 1015年12月14日)は、イヴレーア辺境伯(在位:990年頃 - 1015年)およびイタリア王(在位:1002年 - 1014年)。
生涯

アルドゥイーノは955年頃生まれ、母方の祖父トリノ辺境伯アルドゥイーノ(禿頭伯)から名付けられた。父親のポンビア伯ダドーネ(en)は、イタリア王ベレンガーリオ2世の甥であった[1]

990年、アルドゥイーノは親族であったコッラードの跡を継いでイヴレーア辺境伯となった。コッラードはベレンガーリオ2世の息子で、トリノ辺境伯アルドゥイーノの娘と結婚していた。アルドゥイーノがオットー3世に任命されて辺境伯となったのか、それともコッラードの後継者として辺境伯を継いだのかは不明である[1]。950年のベレンガーリオ2世による再編成以降、イヴレーア辺境伯領はブルガリア(it)、イヴレーア、ロメッロ、オッソラ、ポンビア、スタッツォーナおよびヴェルチェッリの各伯領、イヴレーア、ノヴァーラ、ヴェルチェッリおよびヴィジェーヴァノの各教区、およびパヴィーアとミラノの教区の一部からなっていた[1]

997年、アルドゥイーノはヴェルチェッリ司教を殺害したことで破門された。

アルドゥイーノは1002年にオットー3世が死去した後にイタリア王となったが、ハインリヒ2世も王位を主張した。アルドゥイーノは最初、「パヴィーアのロンバルド人に選ばれ、皆よりカエサルと呼ばれた」という[2]。一方、ラヴェンナ大司教フリードリヒに率いられた教会勢は、新ドイツ王ハインリヒ2世側についた。ハインリヒ2世はケルンテン公オットー1世を送り、ヴェローナ辺境伯としてアルドゥイーノと対峙させたが、アルドゥイーノはファブリカの会戦で勝利した。

ハインリヒ2世は1004年3月にドイツを発ち、大軍でイタリアを占領し、同年4月9日にトレントに到着した。ハインリヒはアルドゥイーノとヴェローナ近くで会ったが、アルドゥイーノはそこに自分のかつての支持者がほとんど現れなかったことに失望した。ハインリヒはイタリアの首都であったパヴィアに入り、5月14日にサン・ミケーレ教会で王として戴冠した後、アルドゥイーノをかくまったこの都市を焼却した。このことで、「イタリア人は皆これに恐れをなし、同時に非常におびえた。アルドゥイーノへの信頼はこの時より薄れ、ハインリヒ2世の権力はいたるところに広まった」という[3]。アルドゥイーノは裏切った者たちに復讐をした。

ミラノ大司教アルヌルフォ(en)によると、彼は、「ヴェルチェッリを占領し、ノヴァーラを包囲し、コモを占領し、彼に敵対した多くの都市を破壊した。最終的に(1014年 - 1015年)、疲れ果て病気になり、王国を奪われ、フルットゥアーリア修道院(en)で満足した。そこで、祭壇の上にレガリアを置き、貧者の衣をまとって眠りについた(1015年12月14日に死去した)。」

彼の死後、イヴレーア辺境伯領は解体された。

彼の名は、オープンソースハードウェアプラットフォーム「Arduino」の名称のもととなっている。
子女

アルドゥイーノはエステ家のミラノ辺境伯オベルト2世の娘、もしくはトスカーナ辺境伯ウベルトの娘とみられるベルタと結婚し、3男をもうけた。

アルドゥイーノ2世(アルディチーノ) - イヴレーア伯

オットーネ

グイベルト

子孫から後のイヴレーア伯、および、アリエブロッソカステッラモンテフロントリヴァローロの伯が出た[1]
脚注^ a b c d Arnaldi 1962.
^ Liber gestorum recentium I.14
^ Liber gestorum recentium I.16

参考文献

Arnaldi, Girolamo (1962). "Arduino, re d'Italia". Dizionario Biografico degli Italiani 4. Rome: Istituto dell'Enciclopedia Italiana.

Arnulf of Milan
, Liber gestorum recentium, ed. Claudia Zey, in Monumenta Germaniae Historica, Scriptores rerum Germanicarum, Vol. 67 (Hannover: Hahn, 1994). Translated by W. North. ⇒[1]

先代
コッラードイヴレーア辺境伯
990年 - 1015年次代
?










イタリア王(1002年 - 1014年)
カロリング朝

カルロ・マーニョ774-814 / ピピン(父と共治)781-810 / ベルナルド810/3-818 / ロドヴィコ1世818-840 / ロターリオ1世818/22-855 / ロドヴィコ2世844-875 / カルロ2世875-877 / カルロマンノ877-879 / カルロ3世879-887
諸家対立王

ベレンガーリオ1世888-894 / グイード889-894 / ランベルト891-898 / アルノルフォ894-899 / ラトルド(父と共治)896 / ベレンガーリオ1世(復位)896-924 / ロドヴィコ3世900-905 / ロドルフォ922-926/33 / ウーゴ926-947 / ロターリオ2世945-950
アンスカリ朝

ベレンガーリオ2世950-961 / アダルベルト(父と共治)950-961/3
ザクセン朝

オットーネ1世951-973 / オットーネ2世980-983 / オットーネ3世996-1002


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